2009年10月25日 庵治町 白峰 休暇村五色台
坂出市青海町 8:56〜12:20 14:25〜15:18 15:48〜16:25



今から841年前、


西行法師は西国に旅をして、笠岡市真鍋島に寄港し、


”真那辺より 塩飽へ通ふ商人は つみをかいにて 渡るなりけり” (山家集)


と歌を詠み、讃岐の多度津へと渡った。






仁安三年(1168年)神無月、讃岐に着いた西行法師は真尾坂という林で仏法の思いを巡らしていた時、

そこから近い白峰という山に崇徳上皇の墓所があることを聞き参拝に登った。





















西行が登った道を、今日えいちゃんが登る。








「児が嶽といふ嶮しき嶽背に聳だち」。



ふーーーーーーむ、険しい山が聳えている。




















西行法師は崇徳上皇の御陵に参拝に登り、

えいちゃんは西行法師の歩いた跡をたどる。



共通しているのは同じ道、そして同じ神無月。














”松山や波に流れてこし舟の やがて空しくなりにけるかな”



白峰は標高が337m、西行の道から見る瀬戸大橋。












西行の道の石段は終わった。





”啼けばきく きけば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす”


写真左に写っている崇徳上皇の歌。














標識により崇徳上皇のお墓に行く。


おや? 「上皇」ではなくて「天皇」になっているな。











じゃーーーーーーん、ここは宮内庁であった!!













第75代崇徳天皇。

在位1123〜1142年。


5歳で天皇になり、24歳で異母弟に譲位、父である鳥羽法王により院政を封印され、ついに「保元の乱」を起こしたが敗走。

讃岐国に流罪となった。











讃岐で暮らすこと9年間、、


上皇は、自分の舌を噛み切って、その血で「日本国の大魔縁となる」と書き残して死んだ。46歳。













上皇の死後、都では異変がつづき死後3年目にようやく「崇徳院」という諡号(しごう)を奉った。






現在の墓は江戸初期に高松藩主により整備されたものだそうだ。













そして昭和39年(1964)、

白峯御陵800年式年祭が、高松宮殿下・天皇勅使・宮内庁役人の参列の下に執り行われている。







つぎ・「雨月物語・白峰」西行の道ABC














2009年10月27日