2006年1月24日  午前10:00ころ 笠岡の戦争遺跡 「奉安殿」
笠岡市吉田 吉田小学校


笠岡市立吉田小学校の「奉安殿」あと。

みごとなまで。
かんぺきに、
あとかはなし。

プールのまんなか。



かつてどこの小学校にも必ずあった「奉安殿」。
吉田小学校のそれはどのあたりにあったのだろう。







吉田小学校のまわりに広がる水田、そこで耕すおじいさんに聞いてみた。





「へい。

あれは私が学校にはいったときにゃ、まだありませんでした。

3・4年生のころできました。


校庭からみたら少し高く段々にしとりました。

いまの、あのプール。あのまんなか当たりにありました。」







吉田小の正門からみればプールの場所はすこし高い。
高くなっていることだけが、しいていえば名残か。





えいちゃんが城見小学校の時。
校庭の隅に石を積み上げた、ちいさな台があった。
その場所に大きな忠魂碑ができて消滅した。

父に聞いたら「あの上に奉安殿がのっていた。」
とのことだった。


戦後すぐ、全ての学校にあった「奉安殿」はすべて撤去された。











祖母がむかし、「この写真も、かけていたら捕まるので隠した。」いう話をしていた。

祖母が亡くなるまで(昭和52年まで)天皇陛下と皇后陛下の写真を掲げてあった。


しかし、終戦後すぐのころは写真はいったんはずし、隠していた。


そういう時代に各小学校は急ぎ「奉安殿」を撤去。


敗戦の一年以内には笠岡に限らず、日本全国にあった奉安殿はいっせいに消えた。







正月(1/1)、紀元節(2/11)。天長節(4/29)。


城見尋常小学生の父、「教育勅語を読みょうた。」

西江原尋常小学生の母、「読むんじゃのうて、覚えささりょうた。」



奉安殿は天皇の写真・・これは写真と呼ばずに「御真影」という・・・、と「教育勅語」。
この二つを保管していたところ。


上記の三節句または明治節(11/3)を加えて四節句の日に、校長先生が扉を開けて写真と教育勅語をとりだしていた。
それは「校長の最大の職務」というばかばかしい話が多く残っている。













いまはもう、奉安殿は。

その「よみかた」さえ忘れられている。



「ほうあんでん」と読む。







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2006年1月25日