2006年1月25日  午前9:30ころ  笠岡の戦争遺跡 山陽線廃線跡地・空地開墾
笠岡市吉浜 


吉浜を走る山陽本線。






ブラスバンドの音がちかく聴こえてくる。
だが、
それは金浦中学校からの音だった。




既に明治20年代開通の笠岡の山陽線。
この線路が戦争の時代に変化していたとは知らなかった。


鉄道の曲線をゆるやかにするため、吉浜を走る山陽本線は北側にレールが移動した。





(山陽本線はここから移動している。)




それはこのあたりになるのだろうか? そこに立てば!


「なんの用事ですかいのう。」

おばさんがニラミつける口調、こわいこわい。









「山陽線が今と違うところを走っていたそうで、ここらではないかなと来たんです。」


いっしょに仕事をしていたおじさんがやさしく、

「あっ、ありゃあここよ。
こっちきてみ。」











線路脇の畑が小高くなっている。
水田だけの吉浜と違って畑。


それが400mほどつづく。





吉浜の中学生がいちばん多く通学に渡る踏切。

そのあたりが廃線跡がいちばん膨らんだ畑となっている。










そこを過ぎると唯一の”ブツ”が残る。
鉄道水路のコンクリートがそのまま。

ううーーん。と感慨みたいなものが出る。


金浦中学には3年通ったけど、この話や、この跡のことはまったく見ることも聞いたこともなかったなあ。




廃線跡地はおじさんが言うのに、
「国鉄が払い下げたんじゃろう。」

今も7割りくらいは畑として使用、3割くらいは荒地のまま。一部山のようになっている。






ほんの1〜2年間くらいだろうが、この廃線跡地は金浦小学校の子供が開墾したことになっている。



(ここで廃線跡地はおわる、吉浜の辻堂ちかくの踏切より。)



笠岡市史Vによれば。

「大戦末期、金浦国民学校の生徒が廃線の荒地を開墾、さつま芋などを収穫した。」そうだ。








つぎ・井笠バス路線(金浦口〜金浦中入口)














2006年1月28日