2006年1月21日  午前9:30ころ 「笠岡の戦争遺跡」 皇紀2600年 ”ようすな漁船の凱旋”
笠岡市金浦  金浦港・金浦八幡様


えいちゃんは小学生の頃から、「皇紀2600年」の祝賀はよく母から聞いていた。


いま思えば、母のほんの短い乙女時代の想い出と重なっていたのだろう。
母は戦争と戦争未亡人のまっただなかの世代である。





(金浦八幡神社。参道はこの「紀元二千六百年」の石柱からはじまる、書は元首相・平沼麒一郎)



母が祝った行事は「日の丸」の旗を持って、「♪きげんは2600年・・・♪」と歌いながら行列をしただけ。

父は現役兵で(かつ傷病兵)、東京で花電車を見物したりお金持ちの家でご馳走になったそうだ。





昭和15年(1940年)、このとし全国規模で皇紀2600年の祝賀が催された。









今年1月、神島にお住まいのI氏と話す機会があり。
その時、大正12年生まれという氏は「いまだ、こういう豪勢なものは見たことがない。」という様子でその時の想い出を自分から話した。





「この前の海に船が何十艘と集まりました。


皇紀2600年を記念して金浦の漁師の船が台湾まで行ってきたのです。

笠岡湾まで戻ってきた時、神島の漁師の船は全部出て金浦の船を取り囲んで祝いをしました。


船には旗幟をたてて、そりゃあ豪勢で見ごたえのあるものでした。」











地元、金浦ではどのような様子だったのだろう?




新川で軽トラで魚売りのおじさんと、客のおばさんが1斗缶で火を焚いていた。








魚売りのおじさん。


「ワシの親父もお祖父さんも漁師をしとった。

じゃけど、そういう話はしたことがないなあ。わっはっは。


漁船にエンジンがないと行けんな。」









客のおばさん。


「ウチの姑さんは昔話が好きでねぇ。

よく聞かされたもんです。


でも、その話は聞いたことがありませんよ。」











どうも不思議だ。



長く金浦に住むと、家族や地域の会話の中で一度や二度は出てくるハズだが。



皇紀2600年「ようすな漁師の快挙」の事は謎のままの日となった。







つぎ・「女子挺身隊」














2006年1月21日