2006年1月22日 午前11:30ころ 「笠岡の戦争遺跡」 女子挺身隊 大塚工場
笠岡市笠岡昭和通り
笠岡の昭和通りに大塚工場が残っている。
のこぎり屋根が五つ。
かつてこの工場も軍需産業の「砲弾・小銃の部品製造」を生産していた。
「笠岡市史V」の記事を下記に写す。
昭和19・6 | 淳和女子高等女学校・4年生 | 54名 | 大塚工場鉄鋼部 | 砲弾・小銃の部品製造 | |
昭和19・7 | 笠岡高等女学校・4年生 | 大塚工場鉄鋼部 | 砲弾・小銃の部品製造 | ||
昭和19・10 | 笠岡商業学校・3年生 | 100名 | 大塚工場鉄鋼部 | 砲弾・小銃の部品製造 | |
昭和19・10 | 淳和女子高等女学校・専攻科 | 36名 | 大塚工場鉄鋼部 | 砲弾・小銃の部品製造 | |
昭和20・6 | 笠岡町女子国民学校・高等科2年生 | 大塚工場鉄鋼部 | 砲弾・小銃の部品製造 | ||
昭和20・6 | 笠岡町男子国民学校・高等科2年生 | 大塚工場鉄鋼部 | 砲弾・小銃の部品製造 | ||
女子挺身隊がどういう様子であったか?
これはおば(父の妹)の話である。時代は昭和16年ころと思える、その話「白紙をもらって」を二つ。
朝も涙、夜も涙、の行き帰り
城見から(同級生の)4人が一緒に児島へいった。
ちょうど、(そのうちの一人)なみちゃんのお父さんが村長しょうた。
他のひとはみな(笠岡)女学校を出とった。
村長から「白紙」を(直接手渡しで)もらって児島に行った。
児島は繊維が盛んで軍服を編みょうた。
女工員の下でいわれるようにテゴをしょうた。
いわれた通りするんじゃができんこともあり。
朝は暗いうちから行き、夜は暗くなって帰る。
いつも(行き帰りは)お月さんをみながらで。
上をみちゃぁ(お月さんをみながら)泣きながら行きょうた。
兄からの「ミルクキャラメル」
食べ物は無くて、朝は梅干。昼はメザシ一匹じゃった。それくらい食べる物がない時じゃった。
兄がよく、ふかした芋を送ってくりょうた。
ある時(送って呉れた荷物の中に)これくらいの・・・おばはそういって手を広げて、手のひらサイズ・・・真四角の薄いものが(更に)包まれて入っていた。
なんなのかと、みんな寄ってきた。
そのなかには「ミルクキャラメル」が十個ほど入っていた。
それをみんなで食べた。
おいしくてみんなよろこんだ。
それから(児島を離れた後の事)、兄にどうして手に入れたのか聞いてみたら。
「ある所から入手した。荷物に「キャラメル」とは書けんから、更に巻いて他の名前を書いて送った。」ゆうてようたのを覚えとる。
(おばは近所の小平井に住んでいる、これは2002年4月14日 本人談)
この大塚工場でも、おばの話のようになかなか辛い仕事と条件が存在していただろう。
おばの場合は家を離れて、児島に住み込みだが。それでもまだ戦争の末期ではない。
昭和19年、20年になると条件は更に悪化している。
年齢が低くなり、ノルマも高くなり。
家から工場までは徒歩で1時間・2時間の生徒も多かったろうし。
「女子挺身隊」は、昭和19年上記のようにその名も「学徒動員」となり。
低年齢化は13・14歳にまで及んでいる。
大塚工場に限らず、工場という工場はみな同じであったろう。
かつての大塚工場は今よりももっと広く「笠岡幼稚園」の敷地も含んでいたようだ。
昭和通りを歩けば、ときおり笠岡商業の女子生徒が平和そうにとおる。
彼女たちの年齢で、この通りを仕事に通った過去の女学生がいたことを知っているだろうか。
(裁判所の駐車場から見る昭和通りの屋根)
いまも昭和通りには昔変わらぬ甍が,面影を残している。
2006年1月23日