2006年3月21日  午前9:30ころ
「笠岡の戦争遺跡」 父の勲章



父の写真に勲章があり。


(撮影年は不明、昭和19・20年と思える。)




そして、その勲章を一度も見たことがない。


これはいったいどういうことだろうか?







(撮影・昭和14年中国石家荘にて。)




父は兵隊時代を語ることはなかった。


えいちゃんが少年時、近所の大人たちは酒の席で決まったように「ヘータイさん」の頃のことを語っていた。
その会話に父は入らなかった。



それは、えいちゃんが成人してからも同じ。
父の前で父の兵隊のことを聞くのは何かタブーのようにさえ感じていた。











(撮影場所・年とも不明。昭和13年〜20年の間)




「刀で人を斬ったことはないが、豚を切って料理した。」
この話をなんどか聞いた。

けれど、これ以外の話は聞いたことがない。



父の軍人生活は人に言えない苦しさがつもっている、子供心にそう思っていた。






(撮影場所・年とも不明。昭和13年〜20年の間)




昭和30年代。

毎年の夏休み、ある親子が二人鳥取から泊まりがけで来られていた。

「父の戦友」ということだった。


昭和30年代の鳥取がどれほど遠いところか、それは若くない人ならわかる。
「遠方からの客」で戦友の意味を理解していた。


その方は30年代が終わるころ亡くなられた。

今もときおり、父も母も「○○さんはええ人じゃった。」と懐かしんでいる。






父が兵隊の話をはじめるのは、昭和もおわり。
平成になってから。
そして父も齢、80になろうかという時までなかった。



(撮影・昭和20年8月8日、
終戦一週間まえ。撮影場所・小田郡城見村茂平の自宅のヒヤ。このヒヤは2006年1月解体した。「雨漏りがしだした。」とのことで。)




春の彼岸の日。

父に”見ず”の勲章のことを聞いてみた。


「終戦後すぐ、勲章の価値をなくしたのでボロ買いに売るなどして処分したのか?」


「いいや、ちがう。
じいちゃん(私の祖父)が大事なものを保管する小箱があったんじゃ。その小箱に大事にしてもっとる。まだ家のどっかにある。」



という返答であった。



しかも父は三度の勲章の時期を覚えていた。






つぎ・玄忠寺人形供養














2006年3月21日