2006年2月19日  午前9:30ころ 笠岡の戦争遺跡・出征軍人の入営見送り(小田郡城見村)
笠岡市用之江の県境




”♪勝ってくぞぉと勇ましくぅ、誓って郷里を出たからはーーーー、
手柄たてずに死なりょうかぁあ・・”








小田郡城見村の入営の見送りは、ここで出征兵士と別れた。





どこの町も村も同じで、村をあげて村境まで見送る。
村境を過ぎたら近親者のみ駅まで見送って行く。

島の場合は港で別れ、笠岡駅まで近親者がついていく。



城見村の場合はたまたま大津野村が広島県で、この県境で見送って別れた。
そして大門駅で家族縁者と別れた。









軍歌「露営の歌」は旗幟とともに村民達が歌いながら列をなしていただろう。


歌の詞は勇ましすぎて、悲しい。



歌はまだつづく、この歌の三番目には”父上に死んで還れと励まされ”る。




死にたい人がいるもんか。
死んで帰れと言う親があるもんか。







歌はまだまだつづく。



”朱に染まってにっこりと、笑って死んだ戦友が

「天皇陛下万歳」と残した声が忘らりょうか”







歌の最後はこうなる。


”東洋平和のためならば、なんの命が惜しかろう”




(軍歌・露営の歌は昭和12年発売、売り上げ枚数60万。記録的な売り上げ枚数となっている。)







表の顔はきっとそうだったんだろう。


「うっかりしたことは口に出せなんだ。」と母も話していたことがある。


国民すべてが”非常時、非常時”という時代に口をすべらし本心を言うことは不可能だった。











父は独身の時、一度。

結婚後、二度。

都合三度、この村境で見送られ。
終戦は内地岡山でむかえ復員。



父の終戦の記憶、
負けて「悲しいことがあるもんか。家にも帰れるし、ええばあじゃ。」


そうゆうことで、その数年後、えいちゃんが生まれた。








つぎ・隔離病棟














2006年2月19日