2006年2月19日  午前9:10ころ 笠岡の戦争遺跡・隔離病棟
笠岡市用之江 恵風荘



昭和20年、茂平に赤痢が蔓延した。

母は姉を背負いこの隔離所に看病にきていた。
母のお腹には生まれる前の兄がいた。

その時、えいちゃんにとって祖母と曽祖父が赤痢になった。






「しんばやし池」と呼ばれる用之江の「長沢田池」。

その池に面した森の中に伝染病の隔離先があった。


それは城見村立の施設で、看護婦が2〜3人詰めていたそうだ。
医師はたまに来ていたそう。


利用されるのは夏だけで秋・冬・春は休業。
そういう施設だった。












えいちゃんはこの「しんばやし池」の横を通学していた。
毎日、それは保育所から高校を出るまで。日に二回この道を通る、そういう道だった。



隔離所の建物は森の木に埋もれるようになり、門だけが現役で残り。
そこに”とうとう”と呼ばれる、こじき同然の男が住んでいた。

”とうとう”は隔離所の時代、年間をとおし番人をしていた人。
”とうとう”は戦後、城見の家々を回り、いくらかの食物を恵んでもらっていた。







”とうとう”が居なくなる事が起きた。

それは、この埋もれていた隔離病棟が建設作業員の宿舎となった。



昭和34年ごろのこと、「国道二号線」の建設作業がはじまった。
その工事で、えいちゃんははじめて「ブルドーザー」「ショベル」なるものの言葉も覚え、実物を見た。


いんばやし池の隔離病棟は現役の作業員宿舎として復活し、そこには家族連れが多数住み込んだ。


2年もせず工事は終わり、作業員家族は去り、”とうとう”も見ることなく、今度は無人の元・隔離病棟になった。






そしてまた数年が経ち、
ここに恵風荘という笠岡市の施設ができた。



最初は平屋の建物だったが、だんだん大きくなり、平成になって池を半分ちかく埋立た。
そして建物も二階・三階建になり。








かつて山に面した建物は道に伸び、
道(県道井原福山港線)は池側に広がり、


恵風荘はいま県道と接した施設になっている。










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2006年2月19日