2006年2月19日 午前8:40ころ
笠岡市神島外浦 中村



このページの古事は伴芳子氏著「神島回顧」を引用させてもっています。


 
今,
外浦の人口は2000人程度だろうか。
かつて。
人口20000人とも25000人ともいわれ、
今神戸と呼ばれ、草木もなびく時代があった。






大阪亜鉛神島工場。
大正4年夏、工場の陣容整い。
職雇人400、工員9000人。





 
日光寺の山をはさんだ中村は工場煙害もなく職員住宅地となっていたらしい。
 







その当時、中村には遊郭もあった。




遊郭が営業をしていた時代は大正初期からいつまでか?
どうもわわからない。
 




 畑で野良仕事のおばさんに聞く。

「私はここへ嫁いで60年、遊郭のことは聞いたことがない。」

そうだろう、話が古すぎるもんな。



中村遊郭の話を聞くことはやめた。
他の人に聞いても無駄と思った。





このことを知っているのはもう外浦で生まれ、90なかば以上の年齢の人しかいない。
100歳以上。


中村遊郭を語れる人はもういない。
 






外浦の人が自慢できる施設であった訳でもないから、もはや、「中村遊郭」はかつての存在が抹消されている。

もう神島の中村遊郭が文字になることも語られることもないだろう。完全消滅。





はなし変わって。


外浦の集落は栄華の跡を語るものが多くある。




狭い道と水路は石つくりで海から上に伸びる。

段々畑と思う場所はかつての住宅。

ところどころ井戸の跡。






石垣の荒地には住宅が密集して、
朝夕は人々がごったがえすようにのぼり降りしていたに違いない。

そういう雰囲気の名残が中村地区にもあり、外浦全般にある。
歩けばそれが楽しい。








全盛期の外浦には、
旅館、置き屋、廻船業、銭湯。

それに旅芸人、映画館は三つプラス工場に一つの計4館。



行政では現在の外浦のほかに、高島・白石島・飛島をしたがえるように管轄していた。











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2006年2月19日