2006年2月25日  12:30ころ 笠岡の戦争遺跡「学童疎開」
笠岡市新賀 安養寺(安養寺から新山小学校への道)



神戸の小学生たちが集団疎開をしていた「安養寺」。





笠岡市内には神戸から大挙集団疎開して分散して生活した。


旧笠岡町では伏源などの旅館、天理教などの教会。

旧北川村では神護寺や北川薬師。



そして旧新山村のココ安養寺。








学童疎開の資料は「集団疎開」のみ記録として残る。

もうひとつの疎開、「縁故疎開」は何も残らない。
個人の記憶として残り、、そして消えていくだけ。



家族から離れての生活はどちらも同じだが「集団疎開」のほうが少し良かったのではと思う。










えいちゃんの義兄は「縁故疎開」で福山市から陶山小学校にただ一人疎開した。


義兄は孤独だった思いを語ることがある。

山を二つ三つ越えて通学していたそうだ。


教室は満員でいっぱいいっぱい詰めていたそうで、
義兄のように個々の疎開児童が多くいたとのこと。




神戸の集団疎開は笠岡男子・笠岡女子・新山・北川の小学校に分かれ、
縁故疎開は金浦・陶山・大島に多かったようだ。






安養寺では25人が生活をしていた。引率の先生2人。









本土空襲必死の昭和19年6月。



政府は、
「東京・大阪など13都市の3年生以上40万人を対象に近接県の農山村へ集団疎開させる」閣議決定をした。

岡山県は兵庫の児童7000人を受け入れ各町村に割り振った。


そして昭和19年9月、神戸市立六甲国民学校6年女子25名の新山生活がはじまった。








”ほしがりません、勝つまでは”

ほしがっても何もない、買うにも物がない。
ひたすらがまん辛抱するだけ。

それは大人も子供もみないっしょ。

みんないっしょだから耐えられる。


昭和19年末ごろから翌年の終戦までは日本の極限状態のとき、疎開児童はそういう時期のもの。








”防空頭巾”

座布団に紐をつけたような防空頭巾をかぶり学校に行く。
冬は防寒にもなろうが夏はかなわんだろうな。

頭の髪の毛はシラミばっかしだったろう、かゆかっただろう。



まあ新山に居れば神戸市よりは安全、空襲の可能性はほぼなし。
しかも残り物や出来の悪い野菜・果物の差し入れも住民からある。




あのいっときの時代の都会生活は子供が住むところでなかった。
数少ない現実に相応した政府の政策であったと思う。







地元・新山の児童とは溶け込んだのだろうか?


当時の「田舎」と「町」は、それはもう水と油くらいの距離があったはずだ。
今で言えば、突然外人生徒が集団で転校してきた、くらい。



神戸には「集団」があり、固まることもあろうし。


話す言葉が違う、
顔が違う(田舎の顔はひびシワがあり、鼻からは青バナをたらす)、
持ち物のが違う(町の人は新品を使う、物には模様がある)



学校では別授業だったのか。
まあ、新山の児童がびっくりしたことだけは確か。
















いま新山小学校の正門は校庭に面してある。
けれど昔は今の裏門、
そこになつかしい銅像がある。

新山小学校の「二宮金次郎」。

昔、えいちゃんもこうでした。たまには。
姿が違うのは手に本を持たないこと。






こういう姿はイヤミですね。

人前でするものではありません。


もっとも今なら、
交通事故にあうから歩きながら本を読むのは禁止だろうけど、ネ。








つぎ・旧・笠岡松山道














2006年2月26日