2006年2月5日  午前10:15ころ 笠岡の戦争遺跡「朝鮮人部落」
笠岡市神島外浦


外浦に「朝鮮人部落」が残っている。






以前、隣の大津野村に朝鮮部落があったことは父から聞いていた。
戦後食べるものも無い時、津ノ下の飛行場に行けば朝鮮人が焼酎を作って売っていたそうだ。

「におう酒だが安かった。」と父は言っていた。

その朝鮮人は飛行場の建設労務者であったことは調べるまでもない。

その土地は日本鋼管が進出して消えた。(えいちゃんは小学生の時、学校の遠足で行きました。建物はそのままありました。)









では神島の朝鮮人はどういう労働で、いつごろ住んでいたのだろうか?






伴芳子氏著「神島回顧」による。


「昭和7・8年ころから終戦まで、谷沿いの一角で。
その昔の亜鉛工場時代に工員住宅が軒を並べていたところに朝鮮人部落があった。

坂本家の畑を借り、そこに三棟の住宅を建て30人ほどが住んでいた。

鉢巻きをして弁当を持ち黙々と仕事場に行っていた。
島の人たちや近所の人たちともなじみ・・。


昭和20年8月15日の翌朝、
16日には朝鮮人部落は無人になっていた。

家は整然と片付けてあり、家主・店舗への支払いの不義理はなかったことが語り草になった。」










その場所に行ってみよう。

36番札所でお参りする方に聞いた。外浦には昭和40年に嫁いでいらい住んでいるというご婦人。

「工場の門のとこに小さな川があります、それに沿って上に行けばいいです。」






このあたりだな。
ちょうど畑で立ち話をしているお二人がいた。


「ここですよ。
この建物です。」








「このあたり全部でした。

この建物だけ残しています。

住んでいたときとまったく変わっていません。」










枯れ木・枯れ草がぼうぼうの中に建物は現存していた。

建物は物置小屋として最近まで使用していたようだ。












後日譚として、また伴芳子氏著「神島回顧」を引用する。


「あの日、煙のように神島から消えた一行は水島に集結し、
故郷に帰りたいものは船で送り、内地で働きたいものはそのまま働いている。」





外浦には12・3年間にわたり「朝鮮人部落」があり、
消滅して61年目になる。ということであった。




追記・このページに関してはKSDランナーズクラブたけちゃん選手から事前に外浦の話があったこと、そして「神島回顧」の本をお借りした。お礼申し上げます。






つぎ・「糞尿船」














2006年2月5日