2006年2月4日 午前9:40ころ 笠岡の戦争遺跡「満州開拓団」
笠岡市笠岡 古城山・開拓碑
もう、すう十年生きてきたえいちゃんが、
一度だけ。
話を聞いている時、ノドが詰まったことがある。
ノドが”うっ”っとなり声が出なかった。
それは、満州帝国が消滅した直後の混乱の吉林市内で逃げ惑う叔母の話であった。
黒髪を切り、顔に炭を塗り、乳飲み子をかかえた当時の叔母の話を聞いている時。
叔母の乳飲み子(えいちゃんの従兄弟)は日本に帰らなかった。
叔母の乳飲み子は、叔母が日本に復員する時点から平成の今日まで、叔母の記憶から消滅している。
作家・新田次郎の妻が書いた本に「流れる星は生きている」というのがある。
満州からの引揚げの話、自伝。
満州帝国は邦人の安全について@市民A公務員B軍人の順序で非難することになっていた。
ところが。
事実は逆で、
@軍人A公務員のみ逃げて、B市民は棄民状態になった。
新田次郎は公務員だったので満州から逃げた、逃げたけれど日本までは帰れず朝鮮半島から苦難の帰国をしている。
「流れる星は生きている」は、そいういう意味ではいちばん恵まれた話でもある。
混乱と暴動の中でわが子を亡くした(それとも無くした?・・いまもわからない)叔母だが、それでも。
「開拓団の人に比べればよかった。大勢よれよれで歩き吉林に逃げてきていた。」
その頃の叔母は、暴行・剥奪・死体が日常の中で生きてきている。
浅口郡大島村から「新・大島村」を満州国に建設せんと、現在の笠岡市大島から満州に渡った。
その人々が満州帝国消滅後に体験するものは”悲惨”という言葉で表現できないほどの、”地獄絵”であったろう。
開拓団は国策として移民している。
「満州へ行けば、広い土地がなんぼでもある。」ゆうこと。
その広い土地は地元民との所有争いを避けて北方となり、北方はソ連に近いところであり、冬は極寒でもある。
結果はそこで棄民状態になった。
国策なので各県に人数が割り当てられ、山間部の農家の次男・三男が勧誘された。
そして熱心な村長か校長先生がいた地区から多く出ている。
異国でまとまるため出る村からは出る。
出ない村からは出ない。
現笠岡市の場合、大島村が出る村だった。
ホームページ「岡山日中友好協会」から下記を借用させてもらうと。
昭和十一年(一九三六年)広田弘毅内閣は一〇〇万戸の対満移民政策など七大重要国策を決定し、満拓公社を設立しました。
対象は徴兵検査を終えた四十才までの農耕経験者で「北辺守備」という目的もあって、ソ満国境に配備されました。
敗戦までに送り出された開拓団員・義勇軍は約二十二万人で、敗戦後の逃避行で約八万人が亡くなりました。
岡山県からは約二九〇〇人が送り出されましたが、生きて帰れたのは約一九〇〇人で、実に三人に一人が帰国出来なかったのです。
昭和二十年八月九日、ソ連軍が満州へ侵攻して来ました。各開拓団はソ連軍と現地人の襲撃に遭い多くの犠牲者が出ました。
当時満州に居た日本人の数は一五五万人と言われています。
その中の一四パーセントに過ぎない開拓団・義勇軍の人数の約五〇パーセントが死んでいったということはいかに悪条件の中で生きていたかを物語っていると思います。
城山にある「開拓碑」。
昭和33年建立、書は当時(昭和10年代)の岡山県知事。
(城山の山頂から見る大島)
逃げ惑い、途中。
疲れ・餓え・倒れ・殺され・暴行され・連れ去られた人も、もう一度この城山に登りたい。大島に帰りたい。
ここに立てば、そういう声が聞こえてきそうだ。
2006年2月4日