2006年1月22日 午前10:00ころ 笠岡の戦争遺跡「皇紀2600年」聖地参拝
笠岡市茂平 茂平八幡様



茂平の八幡さま。





本殿に「聖地参拝」の額がある。

この"聖地”という言葉は、たぶん1945年8月15日を境に消滅した。


"聖地”とは?


伊勢神宮のことのようだ。








「皇紀2600年」をいかに国家が洗脳・扇動・宣伝、あおったか。


それの一例のように思える。


小田郡南部のいちばんはずれにある、ちいさな農漁村。茂平からでさえ40〜50人が聖地に参拝している。








↓、参拝者全員の名が記されてある。







この頃より、日本は空前の神社参りブームが興り、あの1945・8・15にて一挙にしゅぼんだ。


神社参拝は「戦勝・武運」を祈るもので「無事」を祈るものではない。

お参りする人たちの表と裏の気持ちが悲しい。










はなし変わって、ところが。

祭壇正面には「戦勝記念」の額だった。




「明治38年」。

今に有名なこういう年。

天気明朗なれども波高し 皇国の興廃この一戦にあり  二〇三高地

3.1 奉天会戦 
5.27 日本海海戦 

9.5 日露講和条約

日本約12万人死亡 


額をみれば、茂平から日露戦争で4人の戦死者が出ている。





明治38年10月16日。


「日露講和」から一ヶ月ほどあとの日。

この日は天皇から勅語が出された日のようだ。


『陸海軍人へ』

朕カ親愛スル帝国陸海軍人ニ告ク

朕嚮ニ汝等ニ示スニ軍人ノ精神タル訓規五箇条ヲ以テシ明治二十七八年戦役終ルヤ深ク邦家ノ前途ヲ念ヒ更ニ汝等ニ諭示スル所アリ
爾来
十閲年朕カ陸海軍ハ世界ノ進運ニ伴ヒ経校大ニ其歩ヲ進メタリ不幸ニシテ客歳露国ト釁ヲ啓キシヨリ
汝等
協力奮励各其任務ニ従ヒ籌画宜キヲ得攻戦機ヲ制シ陸ニ海ニ曠古ノ大捷ヲ奏シ帝国ノ威武ヲ宇内ニ宣揚シ以テ朕カ望ニ副ヘリ
朕ハ
汝等ノ忠誠勇武ニ頼リ出師ノ目的ヲ達シ上ハ祖宗ニ対シ下ハ億兆ニ臨ミ天職ヲ尽スコトヲ得タルヲ懌ヒ深ク其戦ニ死シ病ニ斃レ又ハ癈痼ト為リタル者ヲ悼ム
朕今
露国ト和ヲ講ス惟フニ我軍ノ名誉ハ帝国ノ光栄ト共ニ更ニ汝等ノ責務重カラシメ国運ノ隆昌亦汝等ノ努力ニ待ツコト大ナリ汝等其レ能ク朕カ意ヲ体シ留リテ軍隊ニ在ル者ト散シテ郷閭ニ帰ル者トヲ問ハス常ニ朕カ訓諭ヲ服膺シテ朕カ股肱タルノ本分ヲ守リ益々奮励以テ報効ヲ期セヨ












ほとんどの村でいちばん古い建物になっている神社仏閣。


神社に残る戦争記念はもう、第二次大戦の記憶しか語れる人はいない。




その人たちも年々減ってきている。






つぎ・奉安殿(吉田小の場合)














2006年1月26日