2006年3月28日  午後0:00ころ
福山市駅前 ピカデリー劇場 東映「男たちの大和」


10年ぶりに映画を見に行く。
行く先は元「日米館」。
今は「福山ピカデリー劇場」という。





ここで1800円也の入場料を払う。




10年ぶりに見る映画は「男たちの大和」。
去年末に封切られ3月末日まで上映中。











えいちゃんと大和。


呉市宮原通り8丁目。

そこは、えいちゃんが社会人一年目に住んでいたところ。
そこは、IHI呉造のまうえに位置していた。

IHI呉造船所は元・海軍呉廠工、そして戦艦大和はここで建造された。

IHI呉造の正門のちかく「大和記念碑」があった。
世界最大の戦艦・大和。






人類史上例をみない「3000人の集団特攻」




映画は最初から泣けてきた。

3000特攻を構成するのは、ほとんどが10代の少年たち。

幼すぎる、若すぎる。












少年たちを兵に送る母。

えいちゃんは、やさしかった祖母(母方)を想い出して、そして重ねて見ていた。









母の末弟は旧制中学3年生で海軍に志願合格した。

15歳の春、叔父は喜び勇み入隊した。



当時の合格の喜びを昨日の事のように言う叔父に、「両親は・・・?」と聞いた。

その時、叔父の表情は一変していった。


「・・・・・・、喜ぶ・・・いう、・・・・ことは、ねぇ。
・・・・悲壮な決意じゃったろう。」


叔父はしぼりだすように言ったことがある。










祖母は一度だけ、16になる叔父を訪ねて行ったそうだ。


昭和20年5月の半ばのこと。


海軍軍人としての刀を購入して、それを我子に届けに行ったそうだ。


それが我が子を見る最後になる。

それは叔父にも祖母にも言葉でなく再会という出来事で示されている。




当時の叔父は、戦況のことはまったく知らず判らず。

いちず・ひたすら、米軍に突っ込むことだけを思っていた。




叔父は典型的な少年兵だったと言える。

それだけに、あの、やさしかった、祖母の心中はどうだったんだろう。
戦後、祖母がその時の話をすることはなかった。

たぶん、祖母に限らず。そういう軍国の母は多くいて、自分だけの悲しみではなかったから。










映画はやたら戦闘シーンが多かった。






太平洋戦争は事実上制空権の争いで勝敗が決まった。
大和に役目はなかった。


そのことを周知しているのは将校の一部に限られ、
兵の大部分は「不沈戦艦大和」「世界最大の大和」であった。


その艦に乗ることは最高の名誉。
沖縄戦への出動に「集団自爆」の意識はまったく無かったとみる。


最高幹部だけが「集団自殺」を強く意識していたであろう。





現代以上に後世では、
「大和」の沖縄戦への参戦は海軍史の汚点として糾弾される、
「強制集団自殺」として。








映画はうそっぽい場面も多かった。


見送りの大勢の人の中で「生きて帰ってーーー。」と叫んでいた。・・・これは無いだろう・非国民。

亡くした戦友の家を訪ねる少年兵。・・・・少年兵が日帰り以外の外出は不可能。

渡哲也演じる長官が「飛行機の援助はないのか?」・・・。戦況をいちばんよく知る長官が言う言葉でない



他にもいろいろあった。
少年兵が負け戦を周知していること。
大和が特攻であること。
脱走兵の存在。
将校たちの自由すぎる討議。




映画の最後に長渕剛の歌がながれキャスト、そこに「監修・瀬島龍三」の名が出た。
映画の権威を示すのか時代証拠なのか?なにかハッとしたが、
無意味としかいえない。









大和が残した最大の遺産といえば。

「造船日本」。


「世界最大の大和」は「世界最大の造船王国」の技術と意識を国民に残した。


いま国民経済のうち造船の比重は落ちているが、戦後20年ほどは工業の代表であり、外貨獲得の最大産業でもあった。







つぎ・木綿橋














2006年3月29日