2006年3月4日 午後1:40ころ
笠岡市中央町 加藤勝信事務所
六月さんが亡くなられた。
六月さんは元衆院議長・星島ニ朗氏の秘書で、星島氏の引退に伴いその後継者として岡山二区選挙区から立候補した。
ジバンは星島氏を引き継いだが、カンバンは兄・武徳さんの「岡山県知事の実弟」いうこと、そしてカネは自由に選挙を戦うほど金は無かった。
用之江の加藤家は資産家でも貧乏でもなかった、普通の家。
初当選したばかりの頃、「後援会だより」のような郵便が家に届き、
”どうかね、むっちゃん”という岸信介元首相と二人の顔写真が表紙になっていた。
あの岸信介元首相と六月さんが並んだ写真を見たときに、衆議院議員いうのはすごいものだと思った。
六月さんの選挙は初当選の時以外は強かった。
持ち前の行動力で支持者が増えた。
行動力はいいことだけではなく。
兄・武徳さんの県知事三選ならずの要因にもなり。
ロッキード事件で「灰色高官」になり、地元笠岡市からは金浦の元議員出馬のうわさで危機になったりもした。
選挙区のライバル「六龍戦争」なるものは、六月さんの最後の選挙以外はなかったように思う。
「六」も「龍」も自分の選挙区は固まっていた。二人は当選指定席だったから争いは不要。
若手の頃の六月さんが新聞などに出たのは、
血判状の「青嵐会」、中川一朗・ミッチー・石原慎太郎等と同じ会。
福田赳夫首相か大臣かの時、国会答弁の原稿を1ページ読み違えた時「わっと泣き崩れる」議員席の加藤六月氏。
「生きてさえいれば首相」と言われた珍しい人がいた、安倍晋太郎次期首相。
その頃、六月さんは経験・実行力・資金など国会の有力議員にのぼりつめていた。
安倍さんの死は、結果的に六月さんの政治力の死になってしまった。
若手の頃は国会で「むっちゃん」と呼ばれた六月さん。
祖父は六月さんのことを「むつきさん」と呼んでいた。
父は「むつき」。
城見小学校で同級生だった叔父も「むつき」。
武徳さんも六月さんも、われわれの郷土の誇りでした。
さようなら用之江の六月さん。
2006年3月4日