2005年10月8日 午前9:00ころ
笠岡市神島見崎 御手洗池
笠岡市に「潟湖」があるなんて。
それを知ったのは去年6月、八十八ヶ所参りの走りでこの池にフナ虫を見た時。
今日は、その御手洗池に向かって走ろう。
(神島見崎)
見崎は神島内浦のいちばん端。
一ヶ月後、フルマラソンを走るえいちゃんにとって神島のはしっこまでは軽い軽い。
そう思っての見崎だったが結構遠かった。
やっと見崎に着いた。
(神島見崎、左手に御手洗池がある)
御手洗池はいったいどういう池だったんだろう?
「どういう」という意味は、
海とのつながりは↓の写真のように距離がある。堀と海がつながる今治城・高松城のように殿様の権力でつくるのとは違うし。??
神島の人にとって御手洗池は日常の生活やくらしにどういうかかわりがあったのか???
玄関まえで選定の準備をするお婆さんがいた。
お婆さんに、「この御手洗池は、・」と聞こうとしたらいきなり。
「いい写真があります、ウチにあがって見てください。」
(正面・御手洗池)
お婆さんにすすめられ、えいちゃんは靴を脱いだ。
以下はお婆さんの話です。
(御手洗池周辺は特に札所が多い)
「そりゃあココはきれいなところでした。」
「砂でできた堤防のうえに松が林になって連なり、前も海、後ろも海でした。
自然と海の砂がここに集まり堤防のように延びて、池になったそうです。
その砂洲に防風林として松を植え、松と堤防は見事な景観でした。」
「この大きな松林には戦時中、飛行機を隠したそうです。
私がココにきたとき(嫁いで)にはまだ、その線路の枕木が松林に残っていました。」
「ここで漁師は網を干していました。」
「むかし天皇がこの池にきて手を洗った、それで御手洗池という名になったそうです。」
「鋼管がきてから変わってしまいた。
砂が要るから、と砂洲の砂は全部採られました。
その時、松は邪魔になるからと全部切られました。
(写真を指さし)これがウチです。
松に囲まれていました、ですから昼でもすかし暗いくらいでした。」
「フグの養殖もありました。
島の道は狭い。
その時、車がとおれる道にしないと。といって道を作りました。
養殖のためといって池も(一部)埋立ました。
それで地形は変わってしまいました。」
(ここ見崎には神島88ヶ所の札所が多い)
「私はお参りする人におもてなしをしています。
『これは何処で写した写真ですか?』と聞かれます。
それで、『ここで写した写真です。』
と、きれいだった頃のことをお話しています。」
(御崎神社。鳥居は背をかがめないと通れない高さ)
「私の主人はお勤めをしていました。
写真が好きでこの砂洲の写真は5枚くらいウチに残っています。
いちばんいいのを、こうして引き伸ばして記念に飾っています。
あの後ろの山、あのあたりから写したと思います。」
(お婆さんの自宅、居間に飾られた御手洗池)
笠岡に「潟湖」が存在することを笠岡市民は知っているだろうか?
えいちゃんは去年まで「御手洗池」、それは瀬戸内地方に星の数よりも多い普通の「ため池」と思っていた。
今日、少し昔まで残っていた自然が作り出すままの砂洲の写真をみて驚いた。
お婆さんが「利権でこうなった。」と嘆いていたが、たしかに。
この御手洗池と砂の堤防は「残す」意志さえあれば、わりと簡単に昔と変わらぬ自然のままで今日まで残っていたのに。
2005年10月8日