2005年2月11日 午前9:00〜12:00
笠岡市山口・新賀 第五回にいやま史跡探訪ウォーキング
駅長さんが復活した。
井笠鉄道「新山駅」の田中駅長、鉄道廃止が1971年3月31日だからもう・・・34年を経て復活した。
制服も帽子もぴかぴか。
「私が健在である限り、この駅は守ります。」
お年齢は90才くらいになられるだろうか? 力強い言葉だった。
去年は新山公民館に集合だったが、今年は農協。
去年は集合時間8:30ぎりぎりだったので、今年は早めに出発。
8:15農協に着、そこで受付。本日の会費400円を支払う。
農協は県道をはさみ、井笠鉄道記念館のまえ。
受付後、農協の待合室ではビデオを放映していた。ビデオは二つ、@A。
@井笠鉄道に池田隆正・厚子さん夫妻が乗られ笠岡から井原の高屋を訪問された時。
A井笠鉄道が廃止された記念の時。
Aはよくわかる、えいちゃんが22歳だったから。
日本の高度経済成長のどまんなかだったから。記憶とそんなに違いない。
@、これはもう僕がもっている記憶とだいぶん違った。
大井療養所、ここは平屋の建物と思っていたが二階建てだった。
田んぼの中を走る列車、それは予想以上に沿線はド田舎の光景だった。
笠岡駅前はなつかしすぎる木造3階の旅館があり、目的地高屋には”最新鋭”紡績工場があった。
厚子さん夫婦を歓迎する井笠の人の顔は「善人」しか存在しない日本の時代だった。ビデオでそれを想いおこした。
9:00スタート、信号を渡り「井笠鉄道記念館」。
貨車はやたら木製が目立つ、外側そして内側も。
えいちゃんは笠岡駅〜七日市駅、それを年2〜3回程度乗っていた。
「井笠鉄道に乗るのは楽しみ。」、あんな楽しい乗り物はなかった。それはえいちゃんの兄弟の共通した楽しみだった。
ここに水車があった、そうだ。
唐臼。
どこの家にもあった「からうす」。
(もちろん、えいちゃんちにもあった。)その代わりにここで精米などをしていたという説明があった。
北側に「古代の丘スポーツ公園」を見ながら、山道を上った。
そこが「岩見山」。
桃畑。
花見の見所。(昭和16年刊・小田郡史)
そうだった、農家の娯楽は「桃畑での花見」。
近所中でいちばん高いところの桃畑に近所同士がむしろと酒をひろげる。
そういう時代がえいちゃんの子供のころまであった。
中国物産が昭和30年ころ完成したという「養鶏試験場」。
建物はすべて廃墟。
当時社員が植えたという樹齢50年の桜の木だけが”現役”で残る。
やま道をさらに上る。
「園芸センター」。
岡山県「園芸センター」、そう呼ばれていた。
2005年2月12日