2004年8月22日  午前6:300〜7:30ころ
旧国道2号線  笠岡市西本町〜福山市大門駅 


「笠岡市立城見小学校」。
えいちゃん母校。




(笠岡市用之江 城見小学校)

えいちゃん当時の面影まったくなし。
皆無。

もはや別の学校としかいえない変わりよう。










元・小田郡城見村役場

城見小学校正門まえ。

いま「用之江公会堂」。
建物外観はまったくかわらず。








城見小学校の校庭は広くなっていた。
校舎を後ろに建てたのと、講堂がなくなったので。
「真田講堂」の跡には石碑。
(城見小学校の講堂は生徒がサナダを織ってそのお金で建てた、それは昭和一桁の時代)








城見に忠魂碑ができたのは遅い。異例の遅さ。
この時できていなかったら時代柄その後建設不可能だろう。

(1959年)昭和35年11月と彫られている。えいちゃん城見小5年生。

書は元陸軍大将宇垣一成。こうしてみると宇垣の書の忠魂碑は岡山県内に相当存在していることが推測される。

(城見小学校校庭にある忠魂碑)





「アメリカ屋」
用之江のアメリカ屋はいま「スパー」。


この店はバス停「用之江」でもあった。



国道2号線の思い出。
毎年この道を駅伝が走った。
下関から大阪まで都道府県対抗駅伝。
車の遮断はない。
車はいないんだから。


たしか読売新聞だったと思う。
その小旗をもって学校の下で全員応援した、毎年のことだった。





(↓の踏切をわたると旧2号線は現2号線と合体する。それは溝口池のとこまでおよそ2キロくらい)




二号線は山陽線と並行する。
ここで「天皇陛下のお迎え」をしたことがる。


先生が生徒全員に配ったものは。
箸の棒を一本、白い紙一枚。

白い紙には手書きで真ん中に○、そこを赤く塗りつぶして「日の丸」ができた。
その旗をもって線路まで歩いた。


ぴかぴかの黒光りがする蒸気機関車があっという間に通り過ぎた。

それが城見小学校全員の「天皇陛下のお迎え」だった。
あっけなく、なさけない「お迎え」だった記憶がある。




(笠岡市用之江、ここから県境まで数百m)











講口池。こーぐち池。



こーぐち池は広島県がわになる。
この池は用之江の子どもの水泳場所だった。

そして夏休み、子どもの水死者がでていた。





大門駅てまえの”踏切番”、それがあったところ。



大門駅前。


大門駅まではなじみすぎる道。
けれどここから旧2号線を福山へ行った記憶は2回ほどあるかないか。

福山に行くには大門駅から汽車だった。
その後バスに乗るころは新国道経由の時代になった。

ここから道は福山へつづく。
けれどえいちゃんにとって旧2号線は大門駅から先はようわからん。






つぎ・元伏越遊郭










2004年8月22日