2004年8月28日 午前8:00ころ
笠岡市伏越 旧・伏越遊郭
玉野市の日比の町をはじめて見たときの衝撃。
いまでもはっきり覚えている。
あれは昭和48年の12月のことだった。
玉野市の三井造船の船渠工事に赴任した時のこと。
作業員宿舎を探して日比の町にはいっていった。
その街の建物は遊郭がそのままだった。
瓦屋根と格子戸・格子窓の家がながくつづき、横道は暗く狭くところどころ犬のフンがあった。
これまで、ここまで時代を隔てて残された街ははじめて見るものだった。
倉敷の美観地区なんかより比較にならない迫力があった。
ただひとつその街の違いは”遊郭”という裏の町。
遊郭の建物は今でも保存活動はまったくない。
港があるところ、船がはいるところ。そこに遊郭はあった。
笠岡でいえば伏越。
ただし規模はちいさい。
伏越の港から歩いて1〜2分。
笠岡の駅から歩けば3〜4分。
遊郭のことは正史に残らない(意識して残さない)ので調べようがない。
伏越遊郭のこともそうで「笠岡市史W・戦後編」にも一行すらその記事はない。
昭和33年3月”郭”は日本全国いっせいに廃止された。
徳川家康が江戸の町に武家町・寺社町などと並び花町吉原を建設して以来、戦後は赤線として残り日本人の生活の中の一部分だった歴史がある。
それが今は抹消されている。
昭和33年といえばえいちゃんが小学の3・4年生。
義兄はその当時大阪の大学に行っていたが廃止の日、「その日は全員飛田へくりだした。」そうだ。
学生時代広島県の忠海出身の同級生は、「船に乗り赤い帯を海に流して捨てていた、海面が相当赤くなった。」という話をしていた。
遊女が去った伏越はさびれた。
ほぼ同時期に港が住吉に移ったこととも重なった。
カフェの店や旅館に転業している。
けど、それも廃業においこまれ建物は崩れるのを待つだけというところが多い。
そうとう古い話ではあるが。
(昭和13・4年ごろ)
父が中国の石家荘にいるころ。
「兵舎の近くにはどことも慰安所があった。
日本人はすれっしもうとった。
日本の遊郭を東京や大阪から田舎の遊郭へ移り、最後に支邦にきとった。
年増ばっかりじゃった。」
そういう話をしていた。
郭の女たちはいつの時代もあちこち転々としていたのだろう。
共同井戸。
「水神」様として祀られてあった。
ここで遊女たちも洗濯をしていたのだろうか?
2004年8月28日