2004年7月23日 午前6:30ころ
笠岡市元井笠鉄道笠岡駅〜くじば駅〜大井村駅



鉄道の名前のとおり井原・笠岡地方の人たちの暮らしと生活に溶け込んだ「井笠鉄道廃止」に「廃止反対運動」は興ったのだろうか?


この時代、日本は有史以来ともいえる激変をしていた。
廃止の日、1971年3月31日はえいちゃん学生の最後の日でもあった。


えいちゃんの大学4年間でどのくらい変わったかというと。

「初任給は2万4000円なんだ。」、大学1年の時の4年生の先輩が大手業者に就職が決まった時の話。3年後、えいちゃんは46000円だった。

いっぽう、茂平のえいちゃんの家はというと。

冷蔵庫がはいった。
電話がはいった。
テレビがカラーになった。
ステレオを買った。
車がはいった。
カドがなくなって庭になった。
土間がなくなって応接間になった。
米つくりを止めてイチゴをつくるようになった。
茂平名物・干しイチジクは廃止された。
・・・・小学生時代・中学生時代は想像もできない。高校時代は夢のようなもの。大学入学時はあこがれのようなもの。
そんなものが4年間で実現したり変化していった。




そういう時代の鉄道は。

路面電車・軽便鉄道といえば「廃止」続出の時代でもあった。
遠くは東京の都電。
呉の路面電車、玉野、下電、西大寺の軽便。廃止はすべてこの時代。

井笠鉄道は時代とともに静かに去ったように思う。




くじば駅まえ。

この駅から笠岡高校・笠岡商高の生徒たちが塊となって降りた。



どれくらい”かたまり”だったかというと。
えいちゃん高校1年生の時の話。
同じ高校の2年生か3年生の女子生徒が「転落死」した。
それくらい客は詰め込まれていた。



「くじば駅」は操車場があった。

「井原駅」「くじば駅」、この二つの駅が井笠鉄道では大きかった。

大きかった「くじば駅」はいま、「笠岡中央病院」とその付属の老人施設。






「くじば駅」をでるとゆるやかな上り坂がはじまる。




右手に笠岡高校。
そういえば授業中、窓の外を見れば。

一両だけの貨車がのんびりと走っていたな。








鉄道は隅田川と並行する。
(笠岡市田頭ふきん)




そして西中を過ぎたころから坂は角度がすこしだけ急になる。



一路、追分にある「大井村駅」を目指す。







左手、追分池がみえる。
これでほっとできない。
イカサにとってはここからが最大関門だった。







いまや伝説の「乗客が降りて貨車を押す」
それはココではなかったろうか?

この地点の50mくらいがいちばん急なように思う。




「貨車を押す」。
今から思えば伝説だが、当時はそうでもなかったろう。



えいちゃんの小学時代だって似たようなもん。
茂平に果物を取りにくる車は用之江から茂平への坂道を人間のスピードより遅かった。
僕たちは車を頂上まで押して”ほうび”に荷台に乗せてもらうのが学校帰りの楽しみだった。





いつか聞いた父の話では、「今日は荷が多いから押すことになるかもしれんな」。
当時は貨客列車だった。
笠岡駅でイカサに乗るとき、雰囲気で客も汽車から降りて押す腹ずもりはできていたようだ。





いま春日台の入り口ふきん。
ここまでくれば汽車はひと安心。







「大井村駅」に着く。





「大井村駅」は、わずか1年半前まで現存していた。




老朽化した駅舎は突然のようになくなった。

いまレールとホームの跡がのこる。



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2004年7月24日