2004年2月28日  午前8時〜10時ころ
倉敷市玉島 中央町・阿賀崎・仲買町


高梁川は3つの川だった。
3つの川が瀬戸内海の燧灘に流れ込んでいた。






400年前に川は二つになった。
玉島を流れていた高梁川はなくなり、現在の玉島の町の誕生の元になった。

(さらには80年前の大正時代、倉敷を流れていた高梁川はなくなり、現在の水島の誕生の元になった。その時から高梁川は一つになった)















そういう要因があるので、玉島には無くなった高梁川の自然の形が町と田んぼに溶け込んで残っている。










新撰組の近藤勇が大名になり喜んでいた頃。
近藤勇が捕まりちょん切られる頃だから明治と江戸の混交時期、備中松山板倉公は筆頭老中として四面楚歌。
鳥羽伏見の戦いの敗戦軍は玉島港へ敗走し、そこへ1000人の官軍が囲んだ。

松山藩の家老が切腹して官軍は玉島を去った。
これを「玉島事件」と地元の人は呼んで、切腹した家老を「町を救ってくれた恩人」として感謝している。





松山藩家老が切腹した間がそのまま残されている、それが柚木家。
古い街中に説明板があり、なんかな?
と思ったらここが柚木家だった。

老木の松、松の根が半分地上にでてその姿が見事。
「どうぞゆっくりみてください。」の声がした。






その奥さんは。
「靴を脱いであがってください。」で、靴を脱いだ。説明つきで家の中を見た。

「お殿様が玉島に来たらこの家で休憩していました。松山藩の建物は無かったのでこの家が玉島では藩の代わりでした。
築後230年、という柚木家の柱は黒光り。

「ここがお殿様専用のトイレです。」
4畳半ほどの畳の間まんなかに蓋がしてあった。ここでお殿さまはしゃがんでいたんだな。





「美観地区」
JR新倉敷駅には「玉島美観地区」の案内掲示板があった。
岡山県で「美観地区」とは大原美術館があるあそこのことかと思っていたら倉敷市内だけでも、もう一つあったんだ。

玉島にある「美観地区」とは。
「新町通」、古い民家土蔵が点在して何百メートルか続く。

「仲買町」、玉島散策マップには「美しい白壁通り」となっているが。
傾きかけた家、留守家が目立つ。
それでも一度あるいて見る価値はある。





『良寛さま』
子供達とかくれんぼをして遊んだあの良寛さん。

仲買町の上にある山に「円通寺」、そこで良寛さんは何年間か修行した。
お寺とすぐ近くに「国民宿舎・良寛荘」がある、良寛荘は新しくなっていたのが見えた。


街角にいたるところ、「全国良寛会議」のポスターが貼られていた。5月に玉島で開催される。


芳井でもいつか「全国雪舟サミット」があったな。
じゃ、笠岡でも「西行法師」や「宗祇」の全国会議を・・・・・?

でもこんなことをしていたら芭蕉サミットなんかどうなるんだろう????




つぎ・相生墓苑








2004年2月28日