2004年2月21日 午前10時10分〜午後3時00分
笠岡市六島


前浦。甍の向こうには内海航路を貨物船が行きかう。




前浦も山にそって上に家がのびる。






前浦の民家の石垣は年月を積み重ね歴史物。
廃家がところどころ。




六島の人口はおよそ100人弱。
周囲は4.3キロの島。



民家の石段を登りきったとこに学校があった。
「笠岡市立六島小学校」。





六島小学校には「六島中学校跡」の石碑もあった。
今、六島小学校を卒業した生徒は東中に進学する。
六島小の生徒数は全校10人を越えるのだろうか?

それでも校舎に「校長室」の看板があった。校長室なんているのだろうか?
校長がいて、教頭がいて、校長先生には「校長室」。そういう一律的なものから抜け出すことはできないのだろうか?






えいちゃんが笠岡高校1年生になったばっかしの春。
春の球技大会があった。
わけもわからないままバレーボールの部のメンバーになりおろおろしていたら決勝までいき準優勝した。

理由は簡単。真鍋中と北木中の出身者が活躍したのだ。
「島の学校の運動場は狭いのでバレーしかできない。」、真鍋中からきたクラスメートはそう言った。

ここ六島小学校の運動場も保育園・幼稚園と同じ広さしかない。











六島港に「店」が一軒あった。
そこで発泡酒を2本買って波止に座ってのんだ。




だが、もう1本買おうと店にはいったが留守だった。
昼の時間だけいるみたいだった。






六島に道路はない。車がいるほど広くもない。
だからフェリーも不要。車も不要。




港には網を手入れする漁師さん二人。「どっからきたんかのお。」
その漁師さんはえいちゃんと同い年だった。


「普段はもっと綺麗なんじゃが、・・・・」網の汚れを気にしているようだ、その汚れはえいちゃんにはわからない。





六島の時間は時計とは関係なく過ぎて行く。

日本は広いが笠岡市も広い、こういう「時」はもはや日本人が忘れた空間のようなもの。それを「市内」で体験できる場所がある。




「六島にまたくらあね。」
漁師さんに手を振りながら桟橋に歩いた。






つぎ・玉島








2004年2月22日