2004年1月25日  午前8時10分ころ
笠岡市生江浜



昭和の5年か6年、日本の戦争の時代がはじまる頃。ここ生江浜の海岸は日本で初めてカブトガニ生息地の指定を受けた。




それから30年たち、戦争の時代は終わりえいちゃんは既に金浦中学生になっていた。
だがその頃でも「カブトガニの保護」、そいういう意識・声は聞いたことがなかった。

カブトガニの保護が立ち上がるのは漁師が補償で網を捨て、笠岡湾の潮止め工事が始まる時まで待たねばならなかった。







金浦中学の同級生にA君がいた。
A君の家は生江浜のまんなかあたりで貸し本屋をしていた。

土間をはいると漫画本を畳の間に2〜3列並べていた。
彼の兄や姉が「末っ子のAだけは高校へ進学させたい。」といったん彼自身が高校進学を決意し、その後断念したいきさつは想い出すたび無念だったろう。
と、それは生江浜に来るたびに思う。





生江浜はこのあたり自然の砂浜となり波がうちよせていた。
夏は子供たちの海水浴場になっていた。





生江浜といえば「集落」「漁業」「真珠」、そして塩田跡。

狭い道は今、どの道も車一台は通れる広さとなっている。
そして生江浜のすぐ前には再来年の岡山国体の会場になる体育館と運動公園が工事中。
国道2号線からは進入道路も建設中。





いまや珍しくなった捨石の防波堤。
笠岡水道となったがいちおう現役として残る。







あたらしい生江浜、写真左手。
吉浜土手から海と塩田跡の陸地に堤防道路が一本続いていたが、堤防前の金浦湾を一部埋め立て団地ができた。
住宅と工場が混在してある。



そのなかにある富士真珠の社屋。
今も操業しているのだろうか?
生江浜といえば「山陽真珠」「富士真珠」これが代名詞だった。






旧堤防の道路から旧塩田地をみれば、ところどころミニ団地ができ、吉浜との境の山の上には「旭が丘」団地がある。











つぎ・北川薬師@A







2004年1月25日