2003年9月23日 午前7時30分ころ
笠岡市大宜
えいちゃんが生まれたところは小田郡城見村茂平。
城見村は用之江・大宜・茂平の3地区で構成されていた。
今日は大宜を走る。
城見の公共物。
村役場は用之江にあった。
小学校、コレも用之江。
駐在所、これまた用之江。
郵便局、これだけが大宜。
ちなみに茂平にはなにもありません。今も昔も。
用之江川。↓。
城見地区最大の河川。全長3キロ強。金浦湾の内海にはいる。
大きな川だ、そう思っていた。
(小学生の時福山明王院に行き芦田川を歩いて渡った。そのとき、腰を抜かすほどのカルチャーチョックを受けた。こんなに大きな川が存在するのかと。)
戦後、稲垣病院ができた。正式には病院ではなく医院、正式には鳥越医院。おなご先生。
先生は稲垣先生と結婚したので「稲垣病院」。↑の写真は右手旧・稲垣病院前。
えいちゃんは小学生の時、一度だけ学校を休んだことがある。そのため皆勤賞を貰えなかった。
おお風邪をひいた。母がリヤカーに僕を積んで歩いて稲垣病院まで運んできたくれた。
金浦中学も皆勤、それは当たり前の時代。9年間皆勤ではじめて皆勤賞。あの風邪は効いた。
稲垣先生は午後、スクーターで城見の患者の家を訪問していた。福山の回生病院の副院長も兼ねていた。
男先生とも呼ばれていた。
風呂の中。明治中期生まれの祖父は「先生は博士(はかせ)じゃけいのう。」とつぶやいていた。
武徳さんや六月さんが大臣になった時も「武徳さんも、六月さんも大臣じゃけいのう。」と言っていた。
”末は博士か大臣か”
祖父の生きてきた時代を感じるが、祖父にとっては驚きであった。
「チンチン踏切」。
大宜名所のチンチン踏切。
大宜にきたからにはコノ踏切を渡らねばならない。
必然というより義務。
「為則商店」
別名、「為則百貨店」
「ためのり」に行けばなんでもある。ないものは無い。それは事実。
着る、食う、住む。すべて揃っていた。(今思えば自給自足の単純生活をしていたもんだと呆れるくらい)
城見地区最大の店。
2003年9月23日