2003年8月12日 午前7時40分ごろ
笠岡市甲弩 甲弩神社
小雨が降っていた。走るにはちょうどいいあんばいだな。
市の北部へ走ってみるか?
とネットで笠岡市HPの観光ページを見たら「甲弩神社」が紹介されていた、其処へ走ろう。
北川平野を流れる尾坂川に沿って走ると、緑に覆われた小島のような山がある。甲弩神社はそこにあった。
神社の前には立派な池があり。
この池には島まであり。
島にまたミニ神社が存在する。
優雅。
石段を登る。
「神社は江戸中期と後期に建造された。
明治、屋根を修理。」そういう案内板がある。
北川平野は奈良・平安期の条里制がそのままかと思えるほど見事にわかる。
それだけでない。
それが水田としてそのまま使用されしいるのだから。
工場・商店・住宅または畑への変化。それがほとんどない。
完全保存史跡「北川平野」
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明治22年、市町村制導入による大合併。
昭和20年代末の大合併。
この二つが現在の市町村の原型になっている。
大正初期に郡制は廃止されたが地域としては残った。
小田郡は広く、小田郡北部・小田郡南部と分かれていた。
新山村から北が小田郡北部だった。
昭和27年笠岡市発足。
隣の新山村と共同してからとの北川村の思惑は最初からつまずく。新山村は吉田村と歩調を合わせ南部の笠岡市へ合併を決めた。
しかたなしに小田川をはさんだ小田町・中川村との合併を考えた。
まず中川村が矢掛町への合併でイチ抜け。
小田町も矢掛町へ合併を決める。
ここで北川村は完全な孤児になってしまった。
村を二分して役場前にムシロ旗を立て矢掛へ揺れ・笠岡へ揺れること数年。
昭和33年、笠岡市へ合併した。
今「組合立」小北中学校がなごりを残す。
学生時代。
ふと隣の人との会話。
「出身は?」
「笠岡です。」
「??高校は?」
「矢掛です。」
里庄・寄島からくるのに市内で矢掛高にいく人がいるのを知った。
当時えいちゃんは知らなかった。北川も知らないし、ましてや甲弩もしらない。
もしこのページを見られた方は覚えてください、「甲弩」は「こうの」と読みます。
小田川の手前です。
2003年8月12日