2003年8月13日 午前7時20分ころ
井原市西江原町賀山
ボニなんで。
祖父母の墓参り兼、山上り練習兼、叔父夫婦への挨拶兼、
もうひとつ(後述)を兼ねて西江原町賀山に行った。
車を新町にある天満屋ハピィ店に留めて賀山へ走った。
神戸(こうど)からの山道を登ろうとした。
神戸からの登山口は神社からはじまるが、これが草ぼうぼう。
この道でよかったのか?
花を供える老女に聞くと。
「この一本道を上れば家がいっぱいでてきます。」と同じせりふを何回も繰り返しおしえてくれた。
賀山への山道は人がひとり歩ける広さ。簡易コンクリートの舗装道は苔でみどりにおおわれている。
この道を登るのは40年振りくらいかな。
賀山に登るとまっさきに祖父母の墓に参った。
祖父母の墓の隣の墓は叔父夫婦のものだった。
叔父夫婦は健在だが墓石に「享年○○歳」と彫れば完成の状態にしていた。
祖父母のお墓ふきんから南を見ると笠岡の御岳山・栂の丸が見える。
賀山のお宮。
賀山の家々。
「以前は六十何軒、今四十何軒。」とおじは話した。
「麻利支天さま」
麻利支天は勝負(かちまけ)の神様で戦時中は兵が参り、今受験生が参る、と叔父は言った。
このことは母も話していた「戦時中はよそからも大勢参りにきょうた。」と。
今も続く正月の餅投げは、かつてえいちゃんも拾いにいったことがある。
↑賀山の祖父母の家の塀。えいちゃん少年期そのまま。今叔父夫婦。
ニワトリの声で目が覚めて起きると山の朝のし〜〜んと冷んやりした空気が流れていた。
夏休み、祖父母の家に遊びに行くと牛のえさの草を刈らされた。1回は草を刈り背負うて帰るのが義務のようでもあった。
もうひとつの目的。
今年2月、玉島の叔父に聞いた予科練の話しについて。長兄である賀山の叔父に確認しておきたいことがあった。
その話しを追記した。呉志飛21711たけさんの松山予科練
叔父に右足は無い。
「この脚がなくなって7年が過ぎた。」と、手でさすりながらそう言った。
叔父は自宅前の畑で農作業中に誤り、耕運機に脚をはさまれ切断した。
「脚の葬式も済んだ。
あとは西江原出身の平櫛田中が107才まで生きたので、それに負けんようにする。」
車イスで畑を走りながら言った。
2003年8月13日