吉原新田


「第三期の干拓は、銅山の南端から苫無(とまなし)に至る海岸堤防によって造成した地域で、吉原新田と呼ばれているものである。

この造成については、吉浜志水家所蔵の古文書「志水関籐代々記」に記録がある。
志水・関籐両家は、代々有田八幡様の神職を勤め、かたわら附近の神社の神官を兼務していた。

この記録は、志水家四代前の先祖関籐藤好の日記であって、文中に小寺清先(1734〜1813)死亡当時の葬儀の模様などが詳記してあったりして貴重な文献である。

文化8年(1811)に潮止めに着手して、閏3月4日に成就し、神官たちを呼んで神事を行ったことを示している。
また8月28日には,新田造成の落成式のようなこと行って、相撲などの祝賀行事もあり、おおぜいの見物人が出た模様が想像できる。」


「吉原新田の造成面積は、検地帳が所在不明でよくわからないが、潮止めから12年後の文政6年の御免状に、見地高七町一反四畝歩とあるのがそれにあたると考えられる。
これは現在の面積に比較してすくなすぎるから、40年後の文久3年に見取場として検地をうけた。
六町六反十五歩がその残り分であろう。
見取場というのは、毎年検地を行い,その年の出来高によって、貢租を決定する方法であるから、前後50年を経過して、なお収穫が一定しなかったことが知られる。これは、排水施設が不完全で、たびたび水害をうけたためであろう。」

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2000年11月11日


吉原新田ができたんで今(といってもひと昔の)の茂平ができた。

2000・7・30