その頃五洋建設は海外工事が売上げの30%、社員の1/4が海外勤務という状態であった。
「カタカナでなく、ひらかなだから」…よかった…と先輩社員になぐさめられ福島県いわき市に赴任した。
昭和53年12月1日のことである。
妻のおなかは相当おおきくなっていた。がいわき市に来た。
翌正月の3日、私と妻は上野駅そして東京駅まできて、そこで別れた。
妻は実家のある岡山県井原市民病院で昭和54年 2月20日長女真理子を出産した。
一ヶ月後の 3月下旬妻は大学生の弟といっしょに真理子とともに東京駅に着いた。そこではじめて我が子と対面した。
99・11・28