5 笠岡湾干拓

日本鋼管は笠岡側にも工場をもつ。
すなわち茂平阿浜から南にゆくと、大径菅専門の笠岡工場がある。
昭和45年、初の大型鋼船が入港しアラスカへ油送パイプを積み出した。

地図を見た限りでは、この工場は海に向かって突き出しているが、昭和49年、笠岡湾干拓堤防(延長4キロ)が完成し、今ではその西の一隅を占めることになっている。
そして海面の部分も51年3月から排水され、次第に乾陸化しつつある。

これももとをただせば、農用地として着工されたものだが、米の生産調整政策にぶつかって、工業用地も認められることになり、西側堤防築提にあたっては、日本鋼管が主にこれをおこなうという、国、県、鋼管の三者負担の工事に変貌したのである。


これの干拓後には、農地としては飼料作物、牧草、そ菜の栽培が、また工業用地としては圧延工場が目途されているという。
それにしても流入河川のないここの干拓には、はなはだ利用困難がひかえている。
高梁川の導水菅はほんの近くまで伸びてはいる。
しかし買わなければならない水で、営農が果たして可能かどうか、それも海面干拓となれば塩抜きという問題が一枚加わるのである。

【続く】

2001年4月29日