団塊の世代のど真ん中の僕たちの成人式は成人であふれていた。 松山市は20歳になる前の歳の人が対象だった。(笠岡市は満20歳が対象だった。) 松山市は会場を四ヶ所に分けて式典を行っていた。 僕たちの会場は松山市清水町の清水小学校の講堂だった。 清水小は商大の隣りで、したがってそのまた隣りの愛大ともあわせ学生が大半を占めていた。 背広姿は同年の社会人、振袖は同年の社会人で右の写真のように清水小学校の会場は学生が占めていた。 清水小体育館は寒く、式典も多少沸いたのは当時新聞をにぎわせていた・・・「一億円のの匂いもかいぞらんがな、もし」の関谷衆議院議員からの・・・祝電披露の時だけだった。 式が終わると寒いので皆それぞれ散っていった。 僕は三畳の下宿間に帰り、すぐに貰ったアルバムと紅白餅の、餅のほうをあけ飢えからの解放とばかりがぶりとかんだ。 その餅は饅頭餅でなく、やわらかい餅でなく、固くなった餅だった。 当時の学生はまずしい生活だったので、食糧としての餅は、僕の下宿生活にある電化製品では食べることが出来なかった。 その時の下宿の電化製品といえば、電気ポット、炬燵。電気スタンドとラジオ。当時の学生は部屋を出るとき電気メーターが止っていた。 なお僕の場合卒業時点では上記プラス、テープレコーダー、電気ストーブを持っていた。(テープレコーダーは最初質屋でもじどおりテープのを買った、が卒業する時持っていたのは今と同じカセットのテープレコーダー) |
2000年12月2日