大門町の誕生

「福山市史 深安町の編入」より

日本鋼管の福山誘致運動が進行中の昭和36年(1961)6月11日、福山市と深安郡深安町の合併問題について、公式の第一回協議会が福山地方事務所で開かれた。
この会に出席した県の地方課長は、「日本鋼管の誘致が決定した場合、日鋼の示している6.6平方キロ(200万坪)の埋め立て条件をスムースに行うために、福山市と深安町の合併が必要である。
また日鋼の誘致が失敗しても県としては企業誘致に備え県独自の工事として埋め立てを行う計画で、このためにも合併していたほうが都合よく進む。」

10月16日日本鋼管の福山誘致が正式に決定するにともない、合併問題も急速に具体化していった。

問題点は
1・深安町の三役および任期中の町会議員の待遇
2・町職員の待遇
3・住民税の格差の取り扱い。

11月18日小川町長が町内を大津野地区と春日・坪生地区の二つに分け、二つの会場に町民代表を集め(285人)、福山市との合併にふみきることについて説明を行った。

11月22日福山市と深安町で、それぞれ臨時の議会が開催され議案が可決された。


昭和37年1月20日正式の合併調印が行われた。

新町名・大門町


その後・・・福山市と松永市の合併

昭和36年の日本鋼管の福山誘致、同38年の備後工業整備特別地域の指定は、福山地方の行政のありかたに大きな変化をもたらした。

39年加茂町長らの要請で神辺・加茂・沼隈・内海・駅家の格町が広域行政懇談会を結成し、昭和40年8月まで市・町の首脳が5回にわたって会合を重ねた。

2001年4月30日