高梁川『笠岡特産干いちじくの今昔』一・笠岡の干いちじくの変遷

いちじくは高温な気候を好み、笠岡市茂平に古くより生食用として栽培され、葉及び果実は整腸剤としての薬効があり、品種は在来種(蓬莱柿)を栽植していた。
 明治の中期に糖度の高い西洋種ホワイトゼノアが導入され、地元の大本幸太が干菓製法を考案(完熟した生果を硫黄でむし、天日乾燥を行い果を平たくし一週間で製品となる)製菓会社へ販売していた。
大正時代〜昭和の初期には栽培者も増加し、乾燥方法も研究改良を加え、各戸に燻蒸室を作り、練炭火力と硫黄でむし、天日乾燥一週間で良質な製品が出来るようになり、栽培も盛んにとなる。
 昭和七年茂平干いちじく組合を結成、干果の協同集荷、検査、販売を行い箱詰(五〆目入)にして神戸、大阪、横浜へ協同出荷するようになる。
 昭和十三年、納屋を改良、小箱詰(二十五〜三十ケ)を一箱とし、”珍菓ほしいちじく”として県内及び県外の市場へ出荷販売する。
 昭和二十年、戦中・戦後の食糧難時代には手作り自然食品として、岡山鉄道弘済会を中心に全国に販路を広げ、笠岡特産干いちじくとして広く愛用された。
 昭和二十七年、農村加工優良組合として山陽新聞社より表彰を受ける。
 昭和二十八年、農村加工推進補助事業として、国の補助をいただき、組合加工場、集荷場の新築を行った。

製造方法について

八月〜十月に生果を穫り、燻蒸室に入れ、温室六十度以上硫黄でむし、一週間天日乾燥を行い、手作業で平たくする。十一月より集荷検査小箱詰を行い、翌年五月迄に笠岡特産干いちじくとして各地に出荷する。栽培面積五ヘクタール。
昭和三十五年頃より食品衛生法に依る検査がきびしくなり、干いちじくも硫黄分の含有量が検出され、組合として岡山県農業試験場、岡山工業試験場、大阪府立園芸試験場の諸先生を講師として現地において製造乾燥法の研究を重ねる。

改良研究実施方法

(1)燻蒸室を改良して温度を80度以上に上昇し、硫黄を少量して燻蒸乾燥する方法(扇風機使用)
(2)生果を砂糖水(20%)で五日間、30%で五日間、40%の砂糖水で五日間浸漬した後取り出し陰で乾燥する方法。

(3)生果を40%の砂糖水煮沸後天日乾燥する方法。
(4)その他化学薬品による方法等。

 以上いずれも乾燥方法製造方法に日数を要し、人件費、材料費が高くつき、品質でも色が紫黒色化して自然食品とは思われず、そのうえ生産コストが高く、組合として製造改良の研究を中止する。
 昭和39年このままの製造では食品衛生法に抵触した場合の対応に責任がもてないので製造販売を中止する。
 昭和40年に生食ようとして市場出荷、食品加工会社へ生果原料等として販売したが、単価が安く収支が合わないので、各自に生木を切り倒して在来種のいちじくに改植を行う。 
 以上昭和40年産より特産珍菓干いちじくは市場より姿は消え去った。
資料『高梁川』 昭和63年12月20日発行 笠岡特産干いちじくの今