茂平から山を越えた向うから シュー・・・ボー・・・・という蒸気機関車の音が聞こえていた。
聞こえてくるのは今、シャープ福山がある。あの山の向う。
大門駅から聞こえてきていた。
祖父は大門のことを「デーモン」と言っていた。祖母は大門のことを「だーもん」と言っていた。
大門駅は故郷の駅だ。
茂平の人は坂里峠を越えて行くか。
西の谷から山越えで行くか。
坂里峠は自転車が使える、が遠い。
で、歩いて西の谷から野々浜へ行く場合が多かった。
大門駅は曲っていた。
田舎の駅でここまでカーブしている駅もめずらしいが、これが駅。ここしか知らないのだから。
大門の駅の前には商売屋が何軒かあった。
そこで買い物をしていた。
ハイヤーもいた。
茂平の人にとって大門駅はなつかしい故郷の駅だった。
2002年1月25日
大門駅から南を見れば
下りのプラットホームへ行くには、線路に降りて渡っていた。
昭和32年ごろ地下道が出来てトンネルを歩いた。
下りの(行き先は次の福山駅と決まっていた)プラットホームはおおきく曲り、そこに立てば南の一面の水田が見える。水田は海の土手まで続いていた。
民家は右、山手側の津の下の家。左、山側の野々浜の家。真ん中はみわたすかぎり水田、その中に小さな道があり、かけって大門駅を目指す人たちが見える。それが通常の光景だった。
2002年3月31日
踏切を上げる
今も車で混雑極まるあの踏み切りは、昭和30年代もけっこうこんざつしていた。
踏み切りは踏み切り子屋があり、国鉄職員であろうおじさんが上げ下げしていた。
当時城見の踏み切りは全て無人であった。
トウセンボするポールが降りるのは大宣の為乗のちかくのだけ。「チンチン踏み切り」と呼んでいた。
2002年3月31日
大門駅の前の店
大門駅の前におおきな店が二つあった。自転車置き場の店も兼ねていた。
店は、ひさしが長く出ていた。漫画雑誌(少年雑誌)も置いてあり、茂平の子供にとっては一番近い本屋でもあった。
高校生に成る頃、大門駅に売店(キオスク)ができた。
2002年3月31日