食糧生産の激減
戦中・戦後の食糧難の期間は、外国からの食糧輸入がとだえたりおおきく制約された、国内生産が激減した1943年(昭和18)頃から1948年までの約5年間とみてよい。
そして食糧難も極限状態に陥ったのは、主食の配給量が一人一日当たり(16〜60歳)これまでの最低二合一勺(297g)になった1945年7月から翌10月までの期間である。
食糧生産の激減はなんといっても肥料を中心とする生産資材の枯渇、戦争中においては、出征などによる農村青壮年男子労働力不足などによるものである。
配給量の減少と栄養不足
割り当て配給制度は、供出制度と並んで主要な政策であった。政府は1940年(昭和15)から配給統制に着手した。すなはち数え年11〜61才は二合三勺と定められた。
しかし食糧事情の悪化に伴い1945年7月からは二合1勺となり、その米食率は81%に低下し、年間平均では60%に低下した。
米以外の食糧としては、サツマイモ・ばれいしょ・かぼちゃなどの代用品で補われた。
食糧の遅欠配と買出し
1945年産米および1946年産米の供出は順調に進まず、特に1946年および1947年の7、8、9、10月の端境期には政府の在庫が底をつき各地で遅欠配が続出した。
このような状況のなかで都市生活者や非農家は、食糧の大半をヤミによって賄はねばならなかった。
岡山県史より
2000年11月6日