結核で死ぬ話   (母の話)


結核では大勢死んだ。
早い人は女学校の五年くらいで死にょうた。

この方でも(茂平・城見)大勢死にょうたらしい。

薬が無かったんじゃけい。


芳井の子が気の毒じゃたんじゃけど(母の従兄弟になるひとか?)
やまべ(母の実弟)の同級生で師範学校を出て井原の青年学校の先生をしとった。
「嫁さんを貰う。」ゆうてようた。

学校の先生しょうたけぃ健康診断があった。それで、ひっかかった。結核がわかった。
嫁さん探すようたやさきに、そしたら結核じゃゆうてわかった。

「養生せにゃあいけん」ゆうてようたが、食べモンがなかろう。
へいで、鶏を飼おて『卵をたべぇ、たべぇ』ゆうてようた。せぃくれなことじゃ。

栄養食べて遊ぶしかねぃ。昔から結核はそうようた。「栄養とって遊べぇ」ようた。せぃだけのことじゃ。

めじろを獲って遊んでばぁ歩きょうた。
卵、卵ゆんで、「もう卵ばぁ、ほしゅうねぃ」いいだした。

ほれで、薬がねぇんでしでぃに弱ってな、・・・・かえぇそうにあった。・・・しめぃにゃ二十四・五で死んだ。

死ぬる時分に、・・・なんか肋骨を切りゃあ直る。ゆうていいだした。
じゃけどすすんどるけぃ、それもできなんだ。

ちいと早ようなけりゃいけんそうな。

結局しめいにゃ、どうにもどうもならんようになった。

ほれで早島の療養所にいった。このへんでは小平井にもあったが、岡山県では早島が一番大きかった。
賀山のおじいさんが見舞いに行った。

まだ若いけぃ気はしゃんとしとる。「かわいそうにあった」ゆうたが、・・・ほんとに。
「かわいそうにばぁあった。行かにゃぁえかった。」ゆうてようた。

直らん病気じゃった。へぃで恐ろしかった。

意識だけはしゃんとして、それで、死んでいく病気じゃった。




2001年6月17日