資料・「闇市の繁昌」・岡山県史


ヤミ商売、つまり統制下にあって入手困難となった物資をひそかに運んで金に帰る商売は戦時下にも存在した。

多くは肉・魚。・、砂糖など当時庶民には、縁の遠い物資が金のある家の勝手口に持ち込まれていた。
白米や酒のヤミもあったそれらは人目を忍んで、比較的富裕な家に持ち込まれるものであった。

敗戦後もいわゆる焼け太りならぬ、敗戦太りの家家には、やはりこのようなひそかなルートを通じて物が流れたことは事実だ。

それよりも戦後の主流となったのは白昼公然と焼け跡の道端に商品を並べ、露店で商売をするヤミ市であった。

商品は、どこから流れてきたのか軍用衣料や婦人の晴れ着、中には勲章まであった。

主体はやはり食糧であり、白米のおにぎり、ぜんざい、おはぎなど昔懐かしい食糧から、
得体の知れない肉がぐつぐつ煮えている豚汁まがいいのものもあって、とにかく口に入れればすぐ食べられる物を扱う店が軒を並べ、何か安くてよい品はないかと物色する買い物客が、その間を走り回る戦災孤児たち、白衣姿で人々に喜捨求める自称・傷痍軍人や、、果ては浮浪者まで入り混じってまさに芋の子を洗うような混雑であった。

特にヤミ市にいけばどうにか必要なものは1通り揃っていた。
しかし値段は極端に高かった。米1升60円。柿が3つ10円という、当時としては滅法な高値であった。
まさに金がものいう世の中であったし、庶民はなかなか財布のひもを緩めることもできなかった。

それでも人々はヤミ市に集まった。商人の方も人の集まる場所に店を開く。店と言っても屋台1つ、ないしは、ござ一枚で商売はできるし、店は多い方は人も集まりやすい。


闇市の繁昌は、当然、後方部隊を必要としていた。売れる商品は補給されなければならない。
こうして登場してくるのは、「かつぎや」と呼ばれる人々である。
当時列車には各駅からかつぎ屋が乗り込んできた。網棚といわず座席の下といわず、便所や洗面所までヤミ米の袋がが山のように積み上げられた。

2001年9月10日