戦争未亡人の話 (母の話)



同級生は、半分くらいが戦争で未亡人になった。一番真ん中じゃた。(母は大正10年3月生まれ、世代的にはそうであろう)


そのまま(結婚しないで)子供を育てたひと、再婚したひと、それも半々くらい。


(戦死時に)子供がいなかったひとは実家に帰っている。(が、年齢的にも同級生は子供がいた)


戦死の時、下に弟がいればそれといっしょになる、(家を守るとかで)ことがよくあった。


(再婚しないで)子供を育てるのは、「相手の家でそのまま」、「自分の実家に帰り」、のケースが半々くらい。
(実家に帰れる状況、帰れない状況、家族、資産、折り合い、いろいろなものが混ざり。)


大宣の○○さんとこは弟と一緒になった。


青野(母の従兄弟、長兄・次兄が戦死して)では三番目のといっしょにさせようとしたが”ワシャ、ねぃとはいっしょにならん”と児島に行って事業を興した。


(女学校の同級生の)矢掛の○○さんは「今では笑おて話せるが、ホントに、言うにいえん苦労をしてきた。」とゆうとった。


よしえさんは今大事にされとる。そりゃ、そうじゃ。生きとるだけでなんぼでも金が入る。(よしえさんは戦争未亡人で、子は二人の姉妹で姉の”くにちゃん”は僕ともよく遊んでいたが中学へ行く頃赤痢かなんかで突然病死した)


(母の実家の、賀山の本家では出征してすぐ、ニューギニア戦線に着く前に船で戦死した。本家のおばさんは女ひとつで一女・ニ男を育てていた)(本家のおばさんは戦死の時、実家の野々浜に帰る話はなかったのか?と聞くと)無い。野々浜には職業軍人で少尉か中尉になっていたのが戦死していた。それに賀山におったほうが資産がある。


昭和20年代は国も国民も貧しく、更に未亡人には村社会での生活に子供を含めいうにいえない苦労があったであろう。
 昭和30年代には遺族手当ても年々増額されいくらかの余裕が。昭和40年代初期には子供が成人になり、更に(戦死時独身者の親がだんだん亡くなり)結果として、遺族年金は戦争未亡人のものとなった。


2001年6月3日茂平堂面の畑にて・いっぷくしながら。