資料・食糧難(井原市史より)


「井原市は農村であったので食糧にはあまり困らなかった方でが、それでも農家1人1日約3合の保有米。
非農家1人約二合配給米ではどうしてもやっていけず、ぬかぱん、いもずるなどを食べる家庭もかなり見受けられた。

食糧不足もさることながら戦時中特に困ったことは応召による人手不足。軍需品生産優先による生活必需品の欠乏であった。
砂糖は一斤約30銭であったが、ほとんど店売りも配給もなかったといってよく、戦後は格農家とも3坪程度、サトウキビを植えて砂糖を絞っていたが、中には一反くらいトウキビを植えても受けた農家もかなりあった。

塩・魚・衣料・油・酒・石鹸などの不足は特にはなはだしく、中にはしようがないので笠岡市の海まで大八車に樽を積んで海水を汲みに行き、たこ村の坂まで帰ると樽のせんが抜けて海水がこぼれ落ちてしまったという笑えない話ももある。

衣料店に行っても衣料はなく、魚店に行っても魚がない、酒屋に行っても酒がないのが実情であった。

酒や魚は冠婚葬祭の時、役場でもらった切符によってわずかに手に入る程度であった。

タバコも1日3本程度の配給しかなく、しかも巻ていないので自分で巻いて吸はなければならなかった。
タバコは1箱朝日17銭、バット8銭、光10銭、さくら18銭であったが40〜50銭のヤミ値がしていた。

衣料も点数制で買うようになっており、晒木綿1ヤール約20銭、キャラコ1ヤール42銭、麻洋服地1ヤール1円62銭。であったが普段はもちろんカーキ色の国民服で背広などを着用することは皆無であった。

政府は物資物価の統制を行い配給制にしたが、絶対量の不足はおおうべくもなく、都市の食糧不足はいよいよ深刻の度を強い、やみ取引が横行した。
井笠鉄道や井笠バスは車両も少なかったのであるか、井原市への食糧買い出しの都会人で満員であった。
しかも石炭不足石油不足で鉄道もバスも木炭を燃料としていたため、30分や1時間の、延着は珍しくなかった。

自動車やトラックは徴用されてしまい、大衆はほとんど自転車を利用したが、その自転車もチューブやタイヤが不足でノーパンというダンゴゴムのタイヤを使った。

これらの買い出し人はイリコ(干魚)衣料・石鹸・砂糖などを持ってきて、米や麦にも豆などと交換して帰るのが通例であったが。時には米1升、20〜30円くらいの高い闇値で買って帰ることもあった。

しかもや闇値ならいくらでも品物が手に入るかというと、なかなかそんなわけにはいかなかった。また各家庭からは金火鉢・扇風機はもちろん蚊帳のつり手に至るまで金具という金具はほとんど供出し、お寺の釣り鐘や、日芳橋・新橋などの手すりまで、撤去して銃器や弾丸の製作にあてるまでに至った。

またどの家庭も1人や2人の応しゅう者や徴用者を出しているので労働力の不足に悩み、小さい子供にまで重労働をさせる有様で、小学校の児童、特に高等科の児童は重用がられ、これらは学校命令で人手不足の家庭のため田植え、稲刈りなどの手伝いに出かけた。


戦争の打撃は中学校教育にも及び興譲館中学校は三菱水島航空機製作所や倉敷倉紡万寿工場に、井原高等女学校は倉敷倉紡万寿工場や三和被服工場に学徒動員によりそれぞれ業をやめて軍需品の生産に従事し、小学校は小学校で実習田の耕作に力をいれたのである。


実習他の耕作に力を入れたので、学習時間が不足し、学用品の不足とあいまって学力の低下はおおうべくももなかった。都市のの児童は児童で、毎日空襲に悩まされた学習も落ち着いてできず、親元を離れて集団疎開をすることになった。井原市へも兵庫県神戸市麻耶小学校などの疎開があり井原町疎開寮・西江原町法泉寺・高屋町天理教会に分散止宿して井原小学校・西江原小学校・高屋第一小学校にに通学していた。」



2001年9月9日