戦死は城見村民葬で


遅うなってから(戦争が激しくなってから)村葬をしだした。

戦死は村民葬で行いそれは盛大なものだった。

茂平・用の江・大宣で合同でする。


旗幟をたなびかえ、村長他全名士が集まり。
坊さんも複数でにぎやかな読経である。


最初の頃・・昭和17年くらいまでか・作者・・・は一人であったが、だんだん戦死者が増えてくると何人かまとまった時には、合同葬をしていた。
だから自宅で一回、そして学校で一回と計2回の葬儀となる。

一人ずつの村葬はしとらん。(一人ずつしょうたら)するばぁせにゃぁいけん。


母は昭和17年茂平に嫁したが城見の戦死葬儀に出た事はない。・・・とのこと。




2000年09月03日