2022年7月11日     月曜日   山形県酒田市落野目                
酒田発   丸池    鉾立展望台   元滝    象潟   矢島 本荘 山居倉庫   酒田(泊) 
7:40    8:30頃    9:40頃    10:50頃    12:00頃     13:50   14:40     16:10頃   18:00着 
                     



バスはホテルに着いた。

そのまま最上川の流れを見に行った。











やはり、山形県といえば”最上川”。








最上川 〜母なる川〜



「流域をたどる歴史二東北編」 豊田武  ぎょうせい 昭和53年発行

山形県のおよそ8割を潤す最上川は、全長229km、流域面積7.040km2の大河である。
人々は山形県の「母なる川」と呼んでいる。


ひらた船

ひらた線には5人乗り米350俵積の大船、縦横18.2m*2.7m、
の他に中船、小船があった。
大船は今の、10トン積トラックの2台ぶんの輸送力である。
元禄10年頃大小652艘の船が最上川に浮かんでいた。
城米は赤字で、商荷輸送でカバーしていた。



小鵜飼(こうかい)船

江戸末期になると、最上川の急流に適合する改良船が増加した。
これが小鵜飼船である。
阿武隈川で導入され、舳先がとがり、スピードも出て、上流向きであった。
ひらた船が左沢〜酒田間を往復1ヶ月かかったが、小鵜飼船は10〜12日間と大幅な短縮であった。
特に明治になって河岸場の統制が解かれてから、需要が高まった。


明治30年代にはいると蒸気船が航海するようになり、
明治32年には鉄道が山形県まで延長され、大正2年酒田まで延長された。

船運は急速に衰えた。










「山形県の歴史」  誉田・横山共著  山川出版社  昭和45年発行


奥羽線の開通

最上川水運でにぎわった河岸場のさびれようははなはだしかった。
なかでも本合海および清水は、中心的な川港ではあるが、陸送の中継地ともなっていた。
本合海には何百もの川船がひきもきらず、町は荷宿・荷揚げや、馬ひき、茶屋などで大いににぎわっていた。
奥羽線と酒田線の開通で、火が消えたようにさびれた。
最上川最大の大石田は、船乗・船大工は、人力車夫・荷車ひきまたは家大工となったが、他土地へ移住するものも少なくなかった。



炭焼き

最北の農業は、”米作”と”製炭”で、
副業としての製炭業は欠くべからざる生業となった。
製炭原木の90%は国有林野から供給されたが、
地元農家の利便よりも、営林当局の国有林経営計画の遂行という見地から、
一方的に行われるため、
農民にとってもけっして容易な生業ではなかった。

昭和30年代後半期になって高度経済成長の衝撃にあい、新しい危機を招来しつつある。
”出かせぎ”の急速な増加である。
製炭の急激なおとろえや、農民生活も全国的に平準化したため、低所得では生活を維持されなくなった。











最上川は「一県一川」。

ほぼ全県民が最上川となんらかの関係を持ちながら生活をしてきた。

「母なる川」という言葉が、これほど似合う県はない。







月山八合目・弥陀ヶ原@AB
クラブツーリズム 『出羽三山と秘境・鳥海の絶景3日間』




2022年7月24日