2022年12月19日   月曜日        山口県萩市山口県萩市呉服町・南古萩町 「菊屋横丁  国指定史跡 ”萩城城下町”
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5:46    6:29 ・7:03 ひかり  8:38    10:00頃    10:59〜11:36    12:20頃   13:38〜14:05    14:52〜15:54       18:01 こだま  20:22 
               




御成道。










菊屋横丁を歩く。










田中義一生家。










高杉晋作誕生地。









高杉晋作立志像。

晋作広場






奇兵隊の創設

文久三年(1863)四月、長州藩は他藩にさきがけて下関で米・仏・蘭の艦隊を攻撃して攘夷を実行した。
六月には報復攻撃をうけ、砲台は破壊され民家を焼かれ敗北を喫する。
実力の差を知らぬ攘夷派の暴走であったが、
ここで長州藩は画期的な政策を実施する。
高杉晋作の建議による奇兵隊の創立である。

あとから考えれば何でもないことではあるが、戦いは武士の仕事という観念から抜け出すことができない当時の頭では、
そんな武士以外の軍隊の存在を認めることはできない。
自分たちの縄張りを犯すものとして、長州藩内においても反対の声があがった。
けっきょく藩庁は高杉の建議を認めた。
藩の重役たちが、高杉の建議をいれて奇兵隊の創設を認めたということは、
彼らが他藩の重役たちにくらべれば、目覚めた人たちであったことの証明であろう。


奇兵隊
幕末の風雲が日ごとに危急を深める文久三年(1863)四月、
長州藩主毛利敬親は藩府を萩から山口へ移して、攘夷の実行をはかった。
その二ヶ月後、高杉晋作・来島又兵衛らによって、奇兵隊が結成された。
五月に世界の列強と交えた馬関戦争に敗れ、新しい組織による強力な軍隊の創立を痛感したのである。
高杉晋作は、
「有志之者」の参加をよびかけた。
身分の上下を問わなかった。
武士・足軽のほかに百姓・町人の有志をつのってつくったこの軍隊は、
正規兵に対するという意味で奇兵隊と名付けられた。

「日本の城下町」  ぎょうせい 1981年発行






蛤御門の変

元治元年(1864)七月十九日、長州軍は敗退した。
この敗戦によって藩主敬親父子は朝敵の汚名を着せられ、つづいて第一次の長州征伐となる。
幕府は数十藩の兵を催して長州を包囲し、総督徳川慶勝は十一月、広島に到着した。
このとき長州藩内には保守恭順派と主戦派の争いが起こり、
恭順派は幕軍の要求するままに、蛤御門の変の責任者として益田親施・福原元嶽・国司親相の三家老に自刃を命じてその首級を徳川総督の実検にそなえた。
徳川総督は降伏の条件が満たされ、大坂へ引き揚げた。

このとき高杉晋作は兵を下関であげ、主戦派も呼応し、恭順派を破った。
その後の藩政は高杉晋作・木戸孝允・井上馨・広沢真臣らによって指導され、幕府に対しては『武備恭順』の方針を決定した。
外には恭順の態度を失わないけれども、内には大いに武備を充実して、
幕府の再征にそなえようというのである。

「山口県の歴史」 三坂圭治 山川出版社 昭和46年発行







伊勢屋横丁









野田家住宅














江戸屋横丁









お寺と神社が同居する”円政寺”。
















陸軍大学

士官学校を出て将校になったが上官にのぼるためには、
陸軍大学をでなければならなかった。
この陸軍入学が、薩長両藩以外はたいへん困難であった。

嘘のような話であるが、
昭和期に入ってからも、薩長出身者以外一人も入学させなかったという年がある。

また陸大の入試に出そうな問題を、薩長出身者同士が知らせ合い、
他藩の出身者には知らせない、というようなことも、公然と行なわれていた。

「日本の城下町」  ぎょうせい 1981年発行







(銅像は陸軍省にあったが、戦後、萩市に移された)




共同通信

登録日時: 1930年11月01日
山県有朋元帥銅像の除幕式
陸軍省構内に完成した故山県有朋元帥銅像の除幕式。
あいさつする清浦奎吾元首相。
製作は北村西望(昭和5)年11月1日、東京・永田町(日本電報通信社撮影)






萩市観光公式サイト

山県有朋銅像(やまがたありともどうぞう)

中央公園に建つ日本近代軍制の確立者 山県有朋の銅像
中央公園に建つこの銅像は、彫刻家・北村西望により製作されました。長崎市の平和公園にある「長崎平和祈念像」は北村西望の最も有名な作品です。

山県有朋は、萩市川島の下級武士の家に生まれました。
松下村塾に入門し、高杉晋作率いる奇兵隊の軍監(副将)となり頭角をあらわし、戊辰戦争などで活躍しました。
維新後は、明治政府の軍備面に精力を注ぎ、徴兵制を施行させるなど近代陸軍の基礎作りに尽力。
のちに陸軍大将となり、日清・日露戦争を推進しました。明治22年(1889) 、明治31年(1898)に内閣を組閣しました。













佐々木義彦

明治20年(1887)生まれ、萩中学校を経て神戸高等商業学校を卒業した。
台湾銀行を経て、帝国人絹・日本製粉・神戸製鋼などの重役を歴任し、
昭和36年(1961)東邦レーヨン社長に就任した。
萩に対しては小学校の施設整備や灌漑用水と公会堂の整備などに多額の寄付をし、
教育の充実や福祉の増進に大いに貢献した。
昭和47年、萩市の名誉市民に推挙された。
台座の文字は総理大臣をつとめた佐藤栄作の揮毫である。
               萩市







海鮮村北長門(食事会場)
阪急交通社・湯治場「俵山温泉」ご入浴と元乃隅神社・萩城下町散策 山口日帰り



2022年12月22日