2021年12月1日 水曜日 奈良県生駒郡平群町”信貴山”朝護孫子寺 信貴山城跡 | |||||||||
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戦国武将の松永秀久といえば、
主家殺し、将軍暗殺、大仏殿焼討などで知られている。
その松永弾正秀久が、織田信長を裏切り、大軍に囲まれて茶具と共に自刃したのが”信貴山城”。
杖を借りて、信貴山城に登る。
長くて、しんどい坂道を上ってゆく。
道は朝護孫子寺の参詣道を兼ねているので、よく整備されている。
ときどき展望もいいし、紅葉もきれいな道だった。
上り・下りで10人位の人に出合った。
参詣の人はんぶん、観光の人はんぶん。1名、トレイルランの人もいた。
ここが「信貴山城跡」。
天正5年、多門山城がこわされ、これをきずいた松永久秀が信貴山城で反乱した。
信長から反乱をしむけられたといってよい。
信長の嫡子信忠が総大将となり、大軍が大和に下向した。
10月6日、薬師寺を本陣とした信忠は奈良を見物し、
興福寺では東大寺の行者法師に五重塔九輪の龍宝龍精にのぼる軽業をさせ、
猿沢池の魚見物をしている。
すでに久秀の敗軍は決定的なもので、大軍の下向は示威のためだったのがわかる。
かくて久秀父子は11日朝まだきに城に火を放って自刃した。
大和の近代化に一役をになった久秀だが、郷村や社寺を手当たりしだいに焼いた積悪は非難されるべきものであった。
大和には久秀のために焼かれたと記す社寺縁起譚が多い。
「奈良県の歴史」 永島福太郎 山川出版社 昭和46年発行
落城後は廃城。
今は大和平野の展望や生駒山系の眺めの場所。
現在は朝護孫子寺の境内の一部で、
「空鉢護法」が建っている。
お堂の周囲は紅葉が最後の見頃の時。
照らされたモミジがきれいだった。
上った道を下りて行った。
借りていた杖を、もとの場所に戻した。
信貴山朝護孫子寺C本堂〜霊宝館
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「JR西日本関西どこでもきっぷ」(2021.12.1)
2021年12月4日