2020年1月30日   木曜日      京都市下京区堀川通り花屋町下ル 本願寺(西本願寺)                     
笠岡    新倉敷    岡山   新大阪   彦根    京都 丹波口     新大阪   福山    笠岡 
 6:43   7:19・7:31  こだま  7:40・7:45  のぞみ  8:31・8:49 新快速   10:14〜12:55  新快速  13:44 14:45    15:23・15:39 のぞみ  16:40・16:53   17:07 
                               




えいちゃん子供の頃、嵐寛寿郎の鞍馬天狗は少年たちのヒーローだった。

ライバルは新選組で、映画のラストシーンは近藤勇(月形龍之介)と決闘する。

決着はつかず、「近藤さん、日本の夜明けは近いですぞ」と言って馬を飛ばして終わるのがパターンだった。



ラジオからは三橋美智也の「ああ新選組」がよく流れていた。

ユーチューブより借用









今日は、その新選組のゆかりの地を何か所か訪れる。




まず西本願寺へ行こう。








超近代的な京都駅ビル。





京都タワーが映る。













塩小路通り堀川交差点。








ここで右折する。










七条堀川交差点。

西本願寺側へ渡る。


















交差点を渡ると「興正寺(こうしょうじ)」。









興正寺の紅梅。色も匂いもいい。














西本願寺の前。


御影堂門。







道の向かい側、

総門や門前町。


















西本願寺に入る。



境内の集会所が、新選組の全盛期の屯所だった。


新選組!をめぐる京都の旅  メイツ出版

西本願寺

新選組の第二屯所が置かれたのが西本願寺太鼓楼。

新選組はここで好き勝手をし、2年後第3屯所となる不動堂村屯所に移った。





御影堂と阿弥陀堂。














お茶所。









「新選組紀行」中村彰彦著 文春文庫 平成15年発行


西本願寺へ移したのは慶応元年(1865)4月下旬のことで、これ以降新選組は屯所とはいわず、本陣と称した。

今は残っていない北集会所は全国の末寺から集まってくる僧侶たちを宿泊させるため六百畳のひろさを誇っていた。

新選組はこの前庭で大砲や鉄砲を撃つ訓練をはじえ、参詣の善男善女から上人までが驚愕したという。

「訓練は前日に断ってからにしてもらいたい」と交渉するが、隊士たちはおもしろがってなおも発砲をつづける」
(新選組顛末記)



この時代の新選組の編成は
総長 近藤勇
副長 土方歳三
参謀 伊東甲子太郎
組長 一番隊・沖田総司
   二番隊・永倉新八
   三番隊・斎藤一
   四番隊・松原忠
   五番隊・武田観柳斎
   六番隊・井上源三郎
   七番隊・谷三十郎
   八番隊・藤堂平助
   九番隊・鈴木三樹三郎
   十番隊・原田左之助

以下・・・伍長20人位。


他に技能を高めるために、
撃剣師範 沖田総司、永倉新八、斎藤一等7人
柔術師範 3人
槍術師範 谷三十郎
馬術師範 1人
砲術師範 2人
文学師範4人


当時の平隊士は130〜140人である。



     
ここに出てくる新選組・七番隊長兼槍術師範の「谷三十郎」が、

備中松山藩の元武士。


今観光客を喜ばせている、

備中松山城天守閣に住むアイドル猫の城主、「さんじゅうろう」の由来の隊士。 








阿弥陀堂門。












 「新選組紀行」中村彰彦著 文春文庫 平成15年発行


池田屋騒動


幕府は尊攘激派の大陰謀を未然に防いだ功を高く評価。

出勤した全員に金十両を支給したほか、働きの度合いによって別段金を与えた。

別段金
二十両 近藤勇
十三両 土方歳三
十両 沖田総司ほか6人
七両 谷三十郎ほか11人
五両 12人


子母沢寛は聞き取りとして、この前後の隊士たちのはしゃぎようを書きとめていいる。

「隊士たちは毎日毎夜島原などへ通いつづけ、大変な騒ぎでした。








安穏殿ほか。









新選組!をめぐる京都の旅  メイツ出版


新選組の実働時間はわずか5年である。

新選組というと壬生のイメージが強いが、最初の2年間だけで次の2年は西本願寺内に設けられた。

池田屋騒動で新選組は一気に人気がヒートアップ、隊士数も200名近くとなり、壬生の屯所はパンク寸前となる。


そこで目をつけたのが西本願寺だった。

普段は無人状態の本堂北側にある600畳の集会所に移転した。

別の狙い、西本願寺の豊富な資金である。

調連と称して大砲を装備、大工を入れて勝手に風呂場を作る、体力増進のためと豚や鶏も飼った。

あまりの身勝手さに耐えかねた寺側は、土地建物の全費用を負担することを条件に移転を求めた。

西本願寺での傍若無人なふるまいは、まさに与太者同然。

名声を得てからの新選組は次第に陰謀や企みに長じて「誠」の心を失っていった。








太鼓楼。












「燃えよ剣」司馬遼太郎


歳三は望楼にのぼった。

眼の下の街道を、長州部隊が通りはじめたからである。

人数は200人あまり。異様である。

洋服に白帯を巻き、大小をさし、すべて新式のミニエー銃口径15ミリをかつぎ、指揮官まで銃をもっている。

運動は軽快だろうと思いつつ、四年前の長州部隊が、
大将は風折烏帽子に陣羽織、甲冑の下には錦の直垂を着、従う者はすべて戦国風の具足をつけ、火器といえば火縄銃ばかりであったことを思うと、
今昔のおもいにたえなかった。長州の軍備は一変した。

京都の薩摩、土佐の部隊も長州と同じ装備である。


(どうやら、世界が変わってきている--)







新選組ゆかりの「島原遊郭」




2020年2月9日