2017年7月29日 土曜日 北海道松前郡松前町 国指定史跡・福山城(松前城) | ||||||||||||
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福山城に着いた。
お城にはアジサイが咲き誇っていた。
北海道の福山城には、あんまり遠すぎて行くことはないだろうと思っていた。
しかし、今回函館に来ることを計画したら是非とも行きたくなった。
この旅行で逃したら、もう松前に来ることはない、そう強く思った。
これが福山城天守閣。銅葺き屋根。
福山城(松前城)は最後の日本式城郭で、1854年(安政元年)に落成した。
築城のいきさつは、
海防上の理由で築城が決まり、高崎藩の兵学者市川一学がこれにあたった。
一学は福山は不適当と考え、函館に築城する意見を述べたが
藩は旧地福山を離れることを好まなかった。
5年の歳月を経て福山城は完成した。
ところが、
とほほな事態が発生した。
安政元年(1854)、福山城落成に先たち、日米和親条約がむすばれ、箱館開港が決まる。
幕府は、箱館奉行をおいて周辺を直轄することにした。
そうなると、松前藩領は江差・福山周辺しか残らない。
失望した藩士の中には脱藩するものがあらわれ、町民の中には江戸の老中に直訴するものがあった。
(以上・山川出版「北海道の歴史」より)
(櫓跡と日本海)
幕末史を彩る”新選組”を、世間に認知さした功労者に永倉新八がいる。
永倉新八は福山藩の出で、新選組の二番隊長。
京都や鳥羽伏見、箱館を含む戊辰戦争に生きの残り、語り、小樽で大正時代になくなった。
新選組の認知向上の最大貢献者と思える。
その後、福山城は
箱館戦争で蝦夷軍に攻められ(城兵がすくなかったこともあり)新政府軍は敗走した。
おそらく、歴史的はこれで福山城は役割を終えた。
昭和24年、
”現存天守”であった、福山城天守閣は飛び火により焼失した。
現在のように防火態勢があれば、焼失は免れたであろう。
馬坂。
馬坂から三の丸・二の丸・搦手門へつづく。
お城にはアジサイがいっぱい咲いていた。
芝もきれいだった。
春は桜の名所。
お城から見る日本海は魅力的だ。
敵軍を発見にはいい城だが、やはり作る場所を間違えたお城のようだ。
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2017年8月10日