| 2016年7月19日 火曜日 | スカイライン | 鷲羽山 | 王島山 | 呼松 | 連島 | ||||||
| 倉敷市松江 王島山 | 10:50頃 | 11:30頃 | 13:10頃 | 13:30頃 | 14:30頃 | ||||||
♪若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 ・・・・・
水島にあった「倉敷海軍航空隊・海軍飛行予科練」跡に、いつか訪れたいと思っていた。

予科練があった場所は王島山とその北側と西側と東側。
今の地図と重ねると
王島山と東京製鉄と松江1丁目・2丁目となる。

この倉敷予科練は存在した期間が短く、本や資料にも出ることが少ない。
存在した時期といい、乙種予科練であることで
飛行機乗りでなく、ドカレンが実態であったことは容易に想像がつく。
「高梁川・56」に予科練生の手記が載っていたので、以下転記する。

「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」 高梁川56号より転記。
倉敷海軍航空隊は、昭和19年11月1日に岡山県児島郡福田村松江に開隊された。
兵員は、
飛行予科練習生 21期 500名
飛行予科練習生 22期 500名
航空隊要員(一般兵員) 700名。
当時、倉敷郊外の水島地区には三菱水島航空機製作所を中心として、「水島軍都整備計画」という壮大な計画が海軍の手で進められていた。

急ごしらえの航空隊はいかにも貧相だった。
練兵場(飛行場)はバラストを敷き詰めただけで、これが新設の航空隊なのかとすっかり気落ちしてしまった。
昭和20年3月、学生・練習生の空中教育は一時中止となった。これにより予科練教育は事実上終わりとなった。
翌日から王島山に防空壕を掘ることとなった。
4月になって松山航空隊から2600名が転属入隊し倉敷空の予科練は4500名になった。
山林開墾隊、防空陣地構築隊などのほか、農作業手伝い、軍需工場の構内作業手伝い、工場疎開手伝いなどにも駆りだされた。

6月1日予科練教育は正式に中止となった。
全国数万の予科練生は練度によって、次のような本土決戦配置につくこととなった。
回天特攻隊
こう龍特攻隊
海龍特攻隊
震洋特攻隊
伏龍特攻隊
水際特攻隊
陸戦隊
防空隊
陣地構築隊
雑作業隊
いままで各期ごとになっていた分隊編成が解かれ全期混成の戦闘編成になった。
わたしは抜根隊になり、チーフとして4名を引率して吉備高原の奥深い山村に松根油工場の手伝い作業員として派遣された。
その後、7月15日佐伯空配置になり水際特攻の訓練を受けていて終戦となった。


編成は次の通りである。
王島砲台(王島山山頂) 8インチ砲 5門
中畝砲台 12.7インチ高角砲 3基
連島砲台(箆取山) 8インチ砲 5門
玉島砲台(狐島) 12.7インチ高角砲 3基
機銃座(倉敷空内) 飛行機搭載用20mm機銃 10基
機銃座(三菱滑走路ふきん) 飛行機搭載用20mm機銃 基数不明



要は、終戦が迫る時期
徴兵検査前の少年たち(15才以上)を飛行機乗り志願兵の名の元に兵隊にしてみたが、
肝心の飛行機はなし。
飛行訓練の代わりに
穴を掘ったり、農作業の補助をしたり、松の木から油を捕ったり、のトホホな少年海軍兵となった。

いっぽう地元松江の農家もとんだ災難に出合っている。
時節側
買い上げとは名ばかりの強制買い取り、国家に差し出す羽目になった。
しかも土地を供出して1年ちょっとで敗戦。
それから10年後、水島は日本最大級の工場地帯となっていった。
王島山も地形を変え、工場区域の中にぽつんと古くからの松江の集落が残る。
目の前で起こった戦後の復興期を語れる松江住民は多いであろうが、
予科練当時の松江を見た人は、もう探すのが難しいだろうな。
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2016年7月20日