2015年12月16日 水曜日 熊本県荒尾市原万田 世界遺産・三池炭鉱 万田坑 | ||||||||||||||
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6:58 | 9:07・9:28 | 10:37〜14:22 | 15:44 〜16:41 | 17:07 〜18:05 | 18:20〜18:42 | 20:37 |
「第二竪坑櫓」と「巻揚機室」。
塀は赤レンガ。
「巻揚機室」は明治42年完成の煉瓦建造物。
入門場所で、
ここからは切符が必用。ガイドさんが数名待機している。
えいちゃんは同じ時間に来た夫婦といっしょに、3人で説明を受けた。
保安帽にカンテラ。
カンテラは充電して10時間程度使えるそうだ。
手前の貨車が石炭を積み、炭坑夫が乗る20人乗り貨車は奥に見える。
ヤマの男たちは貨車に乗って、貨車ごとエレベーターで地下に降りる。
竪抗は歌によれば↓、300m〜600m。
実際は274m。
降りた地底から、更に海に向かって鉄道が伸び採掘したのは有明海のムツゴロウたちが住む場所の地底。
「炭坑節」
竪抗千尺 二千尺 (ヨイヨイ)
下りゃ様ちゃんの ツルの音
ままになるなら あのそばで
私も掘りたや 黒ダイヤ (サノ ヨイヨイ)
歌のように、
黒ダイヤを掘る人は賃金がよかったそうだ。
しかし誰一人お金を貯めた人はいないという。
危険と隣り合わせの為、その日の仕事が終われば散財していたそうだ。
三池炭鉱は、はじまりが大変早く
江戸時代の中期から採炭していた。
当時は塩田の塩焚きのエネルギーとして使用されていた。
明治になり産業革命により隆盛を迎える。
当初は国営だったが、払下げにより三井が買った。以後三井三池炭鉱となる。
昭和30年代の石炭から石油へのエネルギー変換により、三池炭鉱も寂れていった。
炭鉱の事で、避けて通れないのが”鉱山事故”
坑内での事故は労災史上の上位を占める。
ほとんどがガス中毒で、落盤事故は犠牲者がほとんどなかったそうだ。
石炭から石油へと時代が変わり、三池地区はさびれていったが
明るくしたニュースが高校野球の「三池工業高校」の優勝。(昭和40年)
それももう50年前のこととなった。
原監督は昨年亡くなり、
息子の原辰徳前巨人監督は今まで、三池や大牟田の事は一度もしゃべった事が無いそうだ。確かに、そんな感じがする。
三池工業高校の用地は元刑務所で「三池集治監」と呼ばれて、
昭和6年まで三池集治監があった。
三池炭鉱では元々囚人たちが石炭を掘りだしていた。
囚人たちの労働が終わる頃、(昭和初期)
三池炭鉱は大きな変革があった。
坑内を馬が貨車を引いたり、男女とも裸での作業・・・気温よりも湿度が原因らしい。気温30度、湿度90%・・・が廃止された。
なお、労働者の大浴場も男女混浴だったそうだ。
手掘りから、ドリルや発破を使っての掘削へと変わっていった。
その頃、
その三池鉱山の指導者であり、経営者であり、三井財閥の代表人物となった團琢磨は東京で暗殺された。
第二竪坑巻揚機室。
巨大ウインチとワイヤーロープが圧倒する。
説明を聞く3人。
三池鉱山は鉄道が発達し、
大牟田・荒尾から三池港まで石炭や人を運送した。
ここは事務所。
坑内でのメンテの用具が備えてある。
世界遺産には今年の7月に指定された。
「万田坑」でもなく、「三池炭鉱」でもなく
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として。
この世界遺産は鹿児島から岩手までの7県に点在。
全部みようと思ったら時間もお金もかかる。
三池炭鉱だけでも、万田坑の他に
宮原坑、三池港、三角西港、鉄道跡がある。
万田港からの帰り道。
前方に見える有明海。沖までつづく干潟で有名な有明海、その地下が採炭の場所だった。
なお、三池炭鉱にボタ山は無い。
残ってないのでなく、元から無かった。発生したズリは港の造成土として使ったそうだ。
2015年12月20日