2015年4月16日   木曜日     大江    井原    西江原   野上    圀勝寺    湯の華? 
井原市西江原町新町〜小角〜賀山    9:30    10:00    10:33〜12:44    13:40    14:30    15:00


元気だった母が入院2ヶ月、4月9日の夜9時半に亡くなった。

その日の午後も病院に見舞いに行った。酸素マスクを口にしているので会話はできなかったが、意識はいつも通りでハッキリしていた。


医師の死亡診断書に病名はあったが、母の子供3人は”老衰”と解釈した。95才の大往生だった。





今日は母を偲んで、

母が通ったであろう小学生の時の通学道を辿る。



まず小学校を目指す。



(井原市西江原町新町)










旧山陽道、

新町の平櫛田中生誕地、今は高圧線の鉄塔が建つ。



















ここ(写真右)が母の母校で、現在は井原市立西江原小学校。




左は正雲寺、

足利尊氏の宝篋印塔がある。











小学校の西側、学校の塀の下部は母が在校当時といっしょだろうな。そんな古さを感じる。

なにせ、母が卒業したのは80余年前のことだ。









母の小学生時代は着物で通学していた。


着るもので言えば、

母は生涯ブラジャーを付けた事が無かった。


日本人はいつごろからブラジャーを身につけるようになったのだろう?





小学校を卒業後は洋服になったようだ。



結婚したのが昭和17年で、戦時だったので”もんぺ”を着ていた。以後ずっと。

母に限らず、モンペは日常生活や農作業に適したズボンとして愛用された。

晩年になってもモンペの便利さを褒めていた。







今でも農村風景に老婦人のモンペ姿は溶け込んでいる。

戦時中に着ることを強制されたが、戦後70年経ってもすたれない。








ここが校門、

母は岡山県後月郡西江原村の「義之尋常小学校」を卒業している。












学校前で買い物帰りの婦人に話しかけられ、

亡き母の通学道をたどることを話すと飴玉を一つくれた。





その飴を口に入れてから道を辿りはじめた。









立戸(たっと)公園。
















立戸公園は大きな公園で、半分がグラウンドで半分が庭園。

庭園には彫刻像が多い。

















小角(こずみ)、

ここから山道を登っていく。















途中、「崇道神社」

今は小角の神社だが、平安時代には江原郷の総氏神だったそうだ。
















牛の供養塔、

笠岡市内の供養塔と少しだけ形状が異なる。















葉桜の木がつづき、賀山に登ってきた。

















賀山(かやま)の民家が見え始めた。

















写真中央が医王寺で、地区の中心地。


















まずは「摩利支天」様に行こう。






ここ数年、毎年大祭に来ている。もっとも、お参りが目的でなく餅を拾うため。











摩利支天の境内脇にある墓石。那須一族の墓。







つぎ・旧義之小学校(現・西江原小)〜賀山A



2015年4月20日