2015年2月3日 火曜日 16:20頃
浅口市寄島町 寄島図書館内「寄島郷土資料館」
浅口市役所支所の玄関前。
元寄島町役場は現在、
一階が浅口市寄島支所、
二階が中国銀行寄島支店、
三階が寄島図書館となっている。
その図書館の一角に「寄島郷土資料館」がある。
館内に入れば、
まず
”バンコック帽”。
そうだったなあ、
えいちゃんも忘れかけていた。
寄島と言えばバンコック帽の製造が知られていた。
バンコック帽の前工程、
真田の資料。
真田は近辺では鴨方図書館にも多くの資料や道具が展示されている。
この杓は?
これは、潮汲みの杓。
これは砂を引く”まんが”。
そうだったなあ。
これもすっかり忘却の彼方だった。
瀬戸内地方の海岸線は、ほとんどが塩田だった。
これが「寄島塩田」。
早崎から青佐まで、大きな塩田だった。
かつて、
と書いてあるけど大昔ではない。昭和30年頃までは、四国も山陽地方もどこもこんな塩田風景だた。
この写真は↓、塩田の最後の頃。
なぜなら「流下式」の枝条架が見える。
近代の塩田は”入浜式”が長くつづき、”流下式塩田”は・・・たぶん・・・数年間で消えた。
同時に塩田も消えた。
消えた後、代表例では。
坂出は工業地帯になり、
児島小川は商業区域になり、
錦海湾は草ぼうぼうだったが、最近ソーラーが出来た。
浜子(はまこ)は失業したが、社会・政治問題になることはなかった。
思うに、高度経済成長で
浜子にとって、他場所での
より軽労働、より高賃金が背景にあり、塩田廃止は望むところだったのかもしれない。
語り継がれる三郎島の通学風景。
高学年の生徒は、低学園の生徒を乗せて
櫓を漕ぎ対岸の本土まで通学した。
”打瀬”。
ウタセは瀬戸内海の風物詩だった。
笠岡湾にも網を引く”打瀬”がいた。えいちゃんにも忘れられない記憶となっている。
真田、
バンコック帽、
塩田、
打瀬、
今の寄島は何だろう?
牡蠣、シャコ、三郎島・・・かな。
そしてまた数十年が経てば、どんな寄島町になっていくのだろう?
つぎ・三原だるま市@筆影山
2015年2月7日