2015年1月18日   日曜日       実相寺   八幡宮    蓮池    福山城    県博    勝成墓
福山市西町  広島県立歴史博物館    10:35    11:30    12:00    13:00   13:35 〜16:10    16:22
          文化歴史サロントーク  二宮金次郎像と青い目の人形



小学校の「金次郎像」が話題になったのは、

歩きながら本を読むと視力低下だ

交通事故になる

という的外れの指摘をする親がいて、それを受けいれた学校があり新聞沙汰になった位。


それも10年か20年前のことだ。



(三之丸公園のクロガネモチと背後の結婚式場)








戦前の小学校の校庭には必ずのように「二宮金次郎像」があった。




像は銅製・焼物・コンクリート・石造からできていて、

銅製は戦争中に金属類供出、大砲等に変わっていった。

終戦時の混乱で過剰反応により、学校から撤去を命じられた。






この時点(昭和20年末〜21年初め)で日本の小学校から金次郎像は無くなったと思える。







(福山城三の丸跡の「ふくやま美術館」)







何故なら、

同時に命じられた奉安殿が残る学校は皆無に近い。

更に言えば、天皇家を守った和気清麻呂像も学校から消えている。











(福山城三の丸跡の「県立歴史博物館」)






では今学校にある金次郎像は、

すべてが戦後に建立されたものだろうか?そうとも言えない。







(県立歴史博物館の草戸千軒)






戦後の教科から”終身”は消え、

教科書に載ることも稀な金次郎が、何故今でも多くの学校にあるのだろう?



(現在笠岡市内に11像が建つ、学校のほぼ半数)



えいちゃん母校の場合、戦前に金次郎像はあった。(撤去は終戦直後と思える) 戦後再建なし。








(本日の配布資料、時間の大半は金次郎像だった)










かねての疑問が消えるだろうか?と、

1月18日、福山県立博物館で「二宮金次郎像と青い目の人形」というテーマの文化歴史サロントークがあり出席した。










(会場に置かれたサンプル、金次郎像と青い目のお人形)









会場は思いのほかに参加数が多く・・・20〜30人位、マニア的な人が参集するかな?と予想していた・・・

50〜60人、追加のイスが持ち込まれた。









(会場・休憩時間)






受付で小雑誌とも言えるような資料をもらった。

資料等とともに講座は始まった。








(資料のページはトーク氏が現地取材した像のスケッチ・・力作だった・・・が多い。
トーク氏は金次郎さんのチョンマゲ・両手・服装等の姿に関心が強い方だった)






サロントークは2時から4時まで2時間あった。









(会場・休憩時間)






修了前に2名の方が発言を求め、


1名は、戦前と戦後の金次郎像は建立の目的が全く違うことの質問であり

もう1名は、西日本の多くの学校訪問によるレポート報告は貴重である、というお礼の発言だった。








(会場・休憩時間)





この2名の発言氏にまったくの同感であった。


つまり、

望んでいた疑問の解決はほとんど無かった。



しかし

足で見聞きした多数の実地・実物報告は貴重なヒントや資料となった。






(尋常小学唱歌の「二宮金次郎」を歌って終了した。
♪柴刈り 縄ない 草鞋をつくり・・・・・・・、手本は二宮金次郎)




思うに、

金次郎像は神社奉納時代や神社参拝時代と完全に重なっている。


神社にある石碑の半分は昭和5〜16年頃に集中している。

学校の金次郎像も、奉安殿も同時代。



その頃神社参りが隆盛を極め、天皇を拝み、出征者は武運長久を願い

学校では奉安殿を拝んだ。








戦後、多くの神官は神社を離れた。



戦前・戦中、金次郎像は拝む事が求められた時代に生まれ

戦後、勤勉・労働・親孝行の象徴として生き残っているようだ。




しかしそれも推測、

その像は何故同時期に建立され、推進に国家はどのように関係したのか、

いつ、どの理由で無くなったのか・移動・隠したのか?




金次郎さんの像への興味も疑問も消えない。




つぎ・金光の磐座@磐岩神社ABC



2015年1月22日