2013年7月26日 金曜日 | 笠岡駅 | ![]() |
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姫路市本町68 姫路城 「姫路市立美術館」(第10師団跡) | 6:56 | 10:06〜12:16 | 12:36〜15:03 | 17:15 |
昭和19年、
父は2度の兵役を終え定職である岡山県職員(農業普及員)をしていたが
2度目の「赤紙」により3度目の兵役に就くことになり、姫路の師団に配属となった。
姫路時代は父の軍人生活に於いて、いちばん楽な時であったようだ。
既に階級もあがり、
なりより「食べて」「遊ぶ」毎日でたいくつするほどだったそうだ。
我が子に会いたくなって母と姉を姫路に呼び、面会もする余裕があったみたいだ。
途中父は、渥美半島へ米軍からの本土防衛の為の基地造りに派遣された。
その基地づくりの際、「敗戦」を悟ったようだ。
とゆうのは、軍の命令する基地はとても敵の上陸を阻止するレベルのものでなかったようだ。
それに、支給された建設用具は江戸時代の道具と変わらぬ非近代的であった。
その後父は
岡山に配属となり終戦の日まで兵役であった。
岡山では岡山空襲の後の生臭い燃える様子、市街地の焼死体が強い記憶になっていた。
玉音放送は・・・父がいうには・・・・放送前から、「負けたのを言うんじゃ」と思っていたそうだ。
あの日から68年、ついに一度もマスコミは「玉音放送」前の予測される内容についての世論調査をしなかった。
当時の国民はただ何も感じす・思わずに、いわれるままにラジオの前にいたのだろうか?
そして敗戦を知り驚いたのだろうか?
そうではなかろう。
敗戦後、日本がまっさきに行ったのは軍事資料を焼き捨てることだった。
大本営から師団、各地の基地まで書類を焼き払った。
父たちが建設した本土防衛線の渥美半島は、その基地の存在場所ですら不明である。
その基地の跡は、
撤去するまでも無く・・・もろく砂にかえったのだろう。
瀬戸内海沿岸に残る戦争遺跡は、明治の本土防衛基地が大半、
昭和の戦争遺跡は自然に帰ったように消滅している。
明治の軍人たちに比べ、いかに昭和の軍人たちの質が堕落していたかが遺跡でわかる。
今日は父のゆかりの地である第10師団跡にきて、
まだ若い父がこの煉瓦の中を歩くこともあっただろうと胸にくるものがあった。
近世の城は明治以降、
学校になったり・・岡山城(1中)福山城(県女)
軍の施設になった・・広島(第5師団)姫路(第10師団)。
姫路の第10師団は現在の姫路市美術館の他に三の丸広場・動物園、
内濠の外になる駐車場等。
(調査不十分であるが)
姫路城本丸の有料区域を除いた姫路城が「陸軍第10師団」だったと思える。
米軍の空襲で木造の建物は焼けたり、戦後壊され「赤レンガ」の建物のみが残されている。
兵器庫と被服庫の建物だそうだ。
赤レンガは異様に感じるほど新しい。
建物自体は明治末〜大正初めの建築、たぶん古いレンガと入れ替えているのだろう。
建物内部は美術館そのもので、
外観からは昔を偲ぶことができる建造物であるが、内部は面影すらない。
えいちゃんは父の事で陸軍第10師団跡として訪れたが、
しゃれた赤レンガの建物見物として訪問しても充分楽しめる。
横浜の赤レンガ倉庫にも負けない魅力的な建物だった。
2013年7月27日